〜プロローグ〜

　フェザーン宇宙港は秋雨の中で煙って見えた。
「雨か……」
　そういえば、そろそろ帝都フェザーンは長雨の季節に入る。
「閣下には煩わしい時期ですな」
　旗艦の艦橋で何気なく呟かれたその声を聞き逃さず、幕僚のオイゲンがビッテンフェルトにそう声を掛けた。ビッテンフェルトの気質から、恐らく上官はじとじととした雨の季節など気に入らないとオイゲンは踏んだのだろう。
「まあな」
　返事はどこか心ここにあらずという雰囲気を漂わせていた。
　ビッテンフェルトにとって、確かに雨は気に入らないもののひとつだ。子供の頃から、雨が降る度に外に出たいと駄々をこねて母や姉を困らせていたビッテンフェルトである。凡そ芸術的だの文学的だのということには縁も興味もないから、雨をロマンチックだと思うことは当然のことながら、昔もそして今もなかった。
　だが……だが、不思議と嫌いではない。確かに好きではない、だが嫌いにもなれないのだ。我ながら、中途半端な表現だとは思うが……
「閣下、閣下！？　管制より着艦許可がでましたが」
　唐突にオイゲンに呼び掛けられ、ビッテンフェルトはハッとしたように思考を閉じた。
「ん？　ああ。よし、全艦着陸態勢」
　黒色槍騎兵艦隊は司令官の号令の元、整然とフェザーン宇宙港へと降下していった。
　時に宇宙歴８０３年１０月のことである。街は、そろそろ金木犀の芳しい香りに包まれようとしていた。

　宙港に降り立つと、雨の匂いと共に強烈でありながらも爽やかで甘やかな香りが鼻孔を掠めた。
「金木犀か……」
　ビッテンフェルトの胸が微かに痛んだ。また金木犀の香る季節が巡ってきたのだ。どこか懐かしさを秘めた香り……だが、それは過去の悔恨をも甦らせた。
　九月の雨を思わせる銀糸の髪と、暖かみのある黄みを帯びたトパーズの瞳……金木犀の香りにのせて、ある懐かしい姿が画像としてビッテンフェルトの脳裏に浮かび上がる。
　あの娘はなんという名前だっただろうか……夏と冬の間の、優しく爽やかな輝ける季節に出逢い、そして別れた、まるで秋の化身のような娘。
「ファイーナ……」
　過去を探るように、ひとつの名前を口唇にのせる。
　不意に目の前で、懐かしい銀糸の髪がフワリと揺れたような気がして、ビッテンフェルトは無意識に視線を動かした。その先には……
　過去が鮮やかに甦ろうとしていた。


〜過去〜

「フリッツ〜〜♪」
　明るいソプラノの声を弾ませながら、トパーズ色の瞳の娘が銀糸の髪を靡かせて駆け寄ってくる。だが、迎えるビッテンフェルトの顔色は冴えなかった。
「ファイーナ……」
「どうかしたの？」
　ビッテンフェルトの顔色からただならぬ気配を読みとったファイーナが、表情を幾分強ばらせながら問い掛ける。ビッテンフェルトは、だがすぐには言葉を綴れなかった。
「話して、フリッツ……私は大丈夫だから」
　ファイーナのトパーズの瞳に、哀しい決意が漂っている。いつかはくるだろうと絶えず覚悟していた事態が遂にやってきたのだと気付くのは他愛のないことだったに違いない。
「実は俺、ローエングラム伯の元帥府に参加することになった」
　ただそれだけの、だがそれがファイーナにとって別離を意味する言葉であることを彼女は知っている。
「そう……」
　わかっていた。彼が軍人である以上、いつかは別れる日が来ることが……所詮この地はビッテンフェルトにとって通過点に過ぎないことも。それでも、それがヴァルハラに赴く故の別れでないことは、むしろ喜ばしいことなのかも知れない。
「出発は……」
　いつこの地を発つのか、そう問おうとしたファイーナの言葉をビッテンフェルトの真摯な声が遮る。
「三年いや、二年待ってくれるか？」
　二年あれば、恐らくローエングラム伯ラインハルトは自らの野望を叶えるだろう。そうなれば、ビッテンフェルトもそれなりの地位にまで昇りつめることができるだろうし（現時点でも、既に中将だが）身を固めるだけの余裕を公私共に得られていることだろう。
「今はまだ駄目だ。この混乱の中では誰かと一緒になろうとは考えられない。そもそも、明日をも知れぬ命だからな。だが、二年あれば長生きできる世の中になっているかもしれない。いや、きっとそうしてみせる。だから、それまで待ってくれないか？　二年経ったら、例え現状と何も変わっていなかったとしても君を迎えにくる。だから……」
　軍人である以上、いつ死ぬかわからない。自分が死ぬことはもとより覚悟の上だが、愛する女を哀しませることだけはしたくなかった。軍人と結婚したことを後悔させるような真似だけはしたくなかった。だから、どれだけ愛していようと、いや愛していればこそ、簡単に一緒になってくれとは言えないし、ついて来いとも言えない。これがビッテンフェルトのケジメとも言える想いであった。
「待っていてくれるか？」
　それが男のエゴだということを重々承知の上で、だが敢えてそれを言葉にする。
「……ええ……待っているわ、フリッツ……」
　ほんの少し逡巡しながらも、ファイーナは寂しげな表情でビッテンフェルトの言葉に頷きながら応えてくれた。華奢な躰が彼に倒れ込んでくる。
「ずっと待っているから……私には貴方だけだから……だから、必ず迎えに来てね」
　細い肩が震えている……ファイーナが泣いているのがビッテンフェルトにもわかった。怖ず怖ずと言った方がより正しい表現だろうと思えるほどの手付きで、ビッテンフェルトは彼女の背に腕を回し、ぎゅっと抱き締めてやる。
　そんな二人の上に、芳しい芳香を纏った金木犀の小さな花がハラハラと舞い落ちる。果たして、それは祝福だったのか、それとも憐れみだったのか……

　出発の日は雨だった。涙雨……そう形容するに相応しい銀糸のような秋の雨が静かに降りしきる宇宙港で、二人は向かい合う。
「フリッツ……」
　ファイーナの目が赤い。恐らく、昨夜は泣き通しだったのだろう。ビッテンフェルトの胸が引き絞られるような痛みを感じた。いっそこのまま連れて行けたら……そんな想いを意思の力で心の奥底に押し込める。
　涙が一筋、ファイーナの頬を伝って零れ落ちた。
「笑って送り出してくれ。君の笑顔を忘れないように……」
　頬を伝う涙を指で拭ってやりながら、勤めて笑顔でビッテンフェルトが囁く。
　その言葉に、流れ落ちる涙はそのままに、だがファイーナは健気にも微笑みを浮かべて見せた。ビッテンフェルトへの手向けとして……
「ご無事で……」
「ああ……」
　二人はきつく抱き合い、口唇を重ね合い、そして名残惜しげに離れた。
「行ってくる」
　後ろ髪を引かれる思いで、ビッテンフェルトはファイーナに背を向け歩き出す。ビッテンフェルトには見えなかった。ファイーナの華奢な腕が、まるでビッテンフェルトを引き留めようとするかのように彼に向かって伸ばされた瞬間を……
（行かないで……行かないで、行かないで……）
　その言葉を、心の中などではなく実際に口にして叫びたいという衝動を、どれほどの想いで堪えたことだろう。
「貴方なしでは生きていけない……だから、必ず帰ってきて」
　ファイーナの悲痛な声は、だが宇宙へと飛び立っていくビッテンフェルトには届かなかった。
　そして、これが二人の今生の別れになったのである。

〜現在〜

　そう……ビッテンフェルトはファイーナを裏切ったのだ。二年待ってくれ、そう言ったのに、なのに迎えに行けなかった……
（とんだ薄情男だな、俺は）
　あれから何年経ったのだろう？　約束の二年を過ぎた時、ビッテンフェルトは彼女の元に帰るどころか、連絡さえ取ろうとはしなかった。同盟との戦闘が激化していたというのが自らに言い聞かせた言い訳である。
　気にならなかった訳ではない。だが、あれほど愛した彼女のことが、どこか別次元のことのような気がしていたのも本心である。多分、ラインハルト・フォン＝ローエングラムという人間の強すぎる輝きに惹き付けられるあまり、世俗のことがどうでもよくなっていたのかもしれない。それ程に彼はラインハルトに心酔し、そして戦闘に携わるたびに無意識ながらも精神を高揚させ血の色をした夢にのめり込んでいったのだ。
　ふと我に返ったときには、既に四年近い年月が経とうとしていた。失われた刻を取り戻そうとするかのように、ビッテンフェルトはファイーナに連絡を取ろうとした。だが……だが、ビッテンフェルトに対して刻の女神は微笑まなかったのである。
　その時には、ファイーナが行方不明になっていたのだ。必死で行方を探したにも関わらずその足取りは要として知れず、やがてビッテンフェルトは彼女を捜すことを諦めた。これは、ファイーナを裏切った自分への罰なのだと打ちのめされながら……
　どれほど後悔しようと、刻は戻らない。彼女はきっとビッテンフェルトを許してはくれないだろう。今も何処かで恨みの涙に袖を濡らしているのかもしれない。逆に、愛する人を見つけ幸せな人生を送っているのかもしれない。どちらにしても、もう彼女には関わらない方がいいのだ。忘れるべきなのだ……
　ビッテンフェルトも、この数年の間に神とも崇めた光と、そして死線を共にした多くの僚友を失った。もう過去には戻れない。もう、昔の自分ではないのだ。そして、彼は見つけてしまった。共に歩むべき人を。
　ラインハルトのいない世界など、暗黒とそれほど変わらぬものだが、それでも大切な誰かを得るというのは、ささやかながらも充足感をもたらす。同盟との戦闘が終わった今、それこそがビッテンフェルトの全てと言ってもいいのかもしれなかった。
　だからもう、過去は必要なかった。振り返るわけにはいかない。自分自身が選んだ道なのだから。

　宇宙港のロビーの喧噪の向こうに懐かしさを感じる銀糸のような髪が揺れる。
「なんのかんのと言いながら、俺も相当未練がましいな」
　だが、これはきっと金木犀の香りが見せた幻だ……苦笑を漏らしながら、だがどこか無視できぬ予感めいたものを感じ、ビッテンフェルトは視線を動かした。
「！？」
　刻が止まる。喧噪の向こうに、鮮やかな色を纏った忘れた筈の過去の幻影があった。
「ファ……イーナ……？」
　声が出ない。だが、秋の日差しのような柔らかな笑顔は間違うことなく彼女のものだ。昨今は、彼女の顔どころか名前も思い出せなくなっていたのに、なのに急速に彼女の記憶がビッテンフェルトの脳裏に甦る。これは運命の女神の悪戯なのだろうか……
　彼の足がヨロヨロと一歩を踏み出した。と、十数メートル彼方にいる彼女が、まるでその気配を読みとったかのように、ビッテンフェルトの方を振り返る。
　瞬間、あたりの喧噪が消え去り静寂に包まれたかのように思えたのは気の所為なのだろうか。
　ファイーナが立ち上がり、そして幾分硬い表情で歩き出す……ビッテンフェルトに向かって。と……
「ファイーナ」
　ビッテンフェルトのものではない声が、彼女にかけられた。振り向く彼女に歩み寄る男と、まとわりつくようにして抱き付く小さな身体。
「ムッター♪」
　彼女の表情が一瞬のうちに変わる。それこそ、過去にビッテンフェルトを魅了してやまなかった輝かんばかりの幸せそうな笑顔……
　彼は悟った。幸福なのだ、彼女は。約束を守れなかったビッテンフェルトのことを恨んだ時期もきっとあっただろう。だが、彼女はその想いに捕らわれ続けることなく、自らの足で立って歩きだし、伴侶を得、同時に幸福を得た。そして、今の彼女には懐かしむ過去はあっても、振り返る過去はないのだ。
　夫と子供を伴って彼女が歩き出す。その歩みは一直線にビッテンフェルトの方に向かっていた。身じろぎもせず立ちつくすビッテンフェルト……彼の横を通りすぎようとするその瞬間に、ファイーナが一瞬足を止める。
　そしてふたりは、通路の真ん中で立ち止まり、すれ違った。ほんの数インチのところを、互いの視線に釘付けになりながら。一秒が永遠にも思える、そんな再会……
　彼女の黄みを帯びた暖かなトパーズ色の瞳に微かな笑みが漂っていたのは気の所為ではない筈だ。その筈だが、再度確かめようと彼女を振り返りかけ、しかしビッテンフェルトはそれを思い留めた。
　振り返ってはいけないのだ。彼女も、恐らく一度もビッテンフェルトを振り返らず歩いているのだろうから。
「幸せなんだな……それならばいい、幸せならそれでいい」
　かつて不幸にした女。だが、今が幸福なら何も言うことはない。あの笑みは幸福だからこそ向けられるビッテンフェルトへの手向けなのだ。あの、秋雨と金木犀の香りの中の別れの刻と同じように。
　ビッテンフェルトは、俯きながらひとつ溜息を吐いた。肩の荷が降りたような気がする。心の中に引っかかっていたつかえがやっと取れたような、そんな晴れ晴れしい気分だった。
　すべての過去を振り払うようにオレンジの頭を振り、そして正面に向き直る。と、薄茶色の目に飛び込んできたものは……

　翡翠色の瞳に、いつもは纏めて結い上げているハニーブロンドの髪を長く垂らした女が傘を持ってビッテンフェルトを真っ直ぐに見つめながら立っていた。
「ど、どうしたんだ？」
　思わず狼狽えたような声を出してしまった。自分のよく知る目の前の女は、こんなことをするような女ではないと思い当たったのだ。
「雨だから迎えにきたのよ」
　珍しくも毒のないその言葉に、思わず苦笑が漏れる。どういう風の吹き回しか知らないが、好意は素直に受け取っておくのが上策だ。特に、彼女の場合は……
「そうか……」
　そう言いながら彼女の前に歩み寄ったビッテンフェルトに、彼女が声をかけた。
「何かあった？」
　彼女の白くて細い指が、ビッテンフェルトの頬を擽るように撫でる。
「…………」
　ひょっとして、先程の再会の光景を彼女は一部始終見ていたのだろうか。それ故の言葉なのだろうか……ビッテンフェルトは黙り込んだ。
　が、どう答えたものか考えあぐねて無言な彼に意地悪気に笑ってみせた後、彼女はとどめの一言を突き刺す。
「失恋した男みたいな表情してたから」
「え？」
（やっぱり、一部始終見ていたのか？）
　思わずその言葉の意味を問い返そうとしたビッテンフェルトに投げつけるようにして傘を渡すと、彼女はクルリと反転して宇宙港の出口に向かってサッサと歩き出した。歩きながら背後のビッテンフェルトに叫ぶ。
「ほら、いつまでも惚けてないで。行くわよっ！！」
　からかわれたのか、それとも彼女なりの気遣いだったのか……わからないまでも、だがビッテンフェルトは彼と『現在』を共にする女性を追いかけるべく、足を早めたのだった。