くう〜〜　またも恋に破れた……　とまで思っていたかどうかはわからないが、翌朝のビッテンフェルトの気分は最悪だった。
　まあ、誰でもあんな濃厚（に見えた）な場面に遭遇すれば、気分も悪くなるだろう。
　おまけに熱しやすいビッテンフェルトらしく、素性もわからない女に惚れ、その彼女に恋人がいたとわかれば嫌でも落ち込むというものである。
「ビッテンフェルト」
　会いたくないときに限って、最も会いたくない人物に会ってしまうのが世の常であるようだ。
　元帥府の門をくぐったところで掛けられた声の主はプラチナの髪に水色の瞳の僚友、アーダルベルト・フォン＝ファーレンハイトのものだった。
「昨夜のことなんだが……」
　昨夜の今朝では、やはりまだ冷静さを求める方が無理だったようである。ビッテンフェルトはファーレンハイトの言葉を、半分も聞かないうちに手を挙げて止めた。
「本当に済まなかった。覗き見する気は更々なかったんだが、つい……」
　歌声に引き込まれてしまったのだ。
　とにかくバツが悪すぎて、一刻も早くファーレンハイトから遠離りたいと思ったビッテンフェルトは、彼をやり過ごそうと足を早めて元帥府内に駆け込もうとする。
　と………
「げッ……」
　凡そ高級将校らしくない言葉はビッテンフェルトのものである。
「あ、見つけた！」
　昨夜見たプラチナブロンドにサファイアの瞳の歌姫が、明るい笑顔を湛えながら走り寄ってくるのが見えた。
　思わず逃げ腰になる。方向転換しようとして、だがクルリと後ろを向いたビッテンフェルトの前には、今度は追いかけてきたファーレンハイトの姿。まさに八方手詰まり状態に陥ろうとしていた。
（なんで俺ばっかりこんな目に遭うんだ〜〜）
　ビッテンフェルト、悲痛な内心の声。
「本当に済まなかった。二人には迷惑を掛けて……」
　と、いいかけた声はファーレンハイトによって遮られた。
「早まらないで、ちょっと話を聞いてほしいのですがね」
　いつも通りの馬鹿丁寧な僚友の言葉使いに、ビッテンフェルトの狼狽えた精神が少し落ち着きを取り戻した。
「早まる？」
　思わず聞き返していた。早まるとは、一体何を早まったのだろう？
「その前にちょっとお聞きしますがね。私達二人をどういう関係だと思っています？」
　そんなこと、他人に聞いてどうするのだ？　本人達が一番詳しかろうに……　そう思いつつも、ビッテンフェルトは口を開いた。
「そんなこと俺に聞くなよ。恋人同士だろ、昨夜のあれはどう見ても……」
　想い出すだけでのぼせそうだ。が、ファーレンハイトはヤレヤレとでもいいたげに溜息をついた。どことなく呆れたような苦笑が口元に浮かんでいると思ったのはビッテンフェルトの気のせいばかりとは言えないだろう。
「やはり誤解しているみたいですね」
　誤解？　いくらなんでも、それはないだろう。あんな濃厚ラブシーン（一歩手前）を繰り広げるなんて……
「あのぉ……　コンタクトが外れたと思って、彼に見てもらってたんですけど」
　歌姫が怖ず怖ずと言った。
（コンタクトぉ〜〜〜？？？）

「改めて紹介します。私の末の妹のエリザベート・シャルロッテ、通称リーゼロッテです。兄妹だけあって、よく似てるでしょ？」
「初めまして、ビッテンフェルト提督。お噂はかねがね兄から聞いております」
　どんな噂をしているんだか……　と、それは置いといて。
　ハッキリ言おう。ビッテンフェルトは貧血を起こしそうだった。
（こ、この野郎〜〜）
　内心では、きっとこうやって質の悪い兄妹を罵っていたことだろう。　
　だが、冷静に観察してみれば、二人は確かによく似ていた。完璧な一対の絵画……　当たり前である。畑が同じなのだ。が、それが昨夜は別にうつってしまったのだから始末が悪い。
　まあ、人間誰しも間違いというものはあるものである。しかもこの兄妹、わざわざ他人に誤解を与えるような行動をとっていると思えなくもない節があるのも確かだった。
「仲、良すぎないか？」
　素直に、思ったことを口にしてみた。
「大切な妹に悪い虫がついては困りますからね」
　シレッとした顔でファーレンハイトが返す。冗談のようにも聞こえるし、本気のようにも聞こえるが、それを推し量ることはビッテンフェルトにはできなかった。
　そもそも、人の心の中まで読みとるなんて繊細な芸当、ビッテンフェルトの最も苦手とするものなのだ。
　ところで、この場でようやくビッテンフェルトはファーレンハイトの妹であるということ以外の彼女の素性について知ることが出来た。
「幼い頃から教会の聖歌隊で喉を鍛えていたんです」
　つまり本物の歌姫なのだ。
　昨夜は晩餐会の席で歌を披露するようにと宮内省から要請があり、ついでに公式の場での兄のパートナーをも努める為に皇宮に姿を見せていたらしい。
　が、残念ながら会場を抜けだしたまま行方を眩ませたビッテンフェルトは、彼女の晴れ舞台は見逃していた。
　中庭から逃げ出したとき、そのまま晩餐会場に戻っていれば、少なくとももう少し早く彼女の正体を知ることができただろうし、ファーレンハイトとの関係を誤解することもなかったのかもしれない。が、それは後の祭である。
「ひとつ聞きたいのだが……　昨夜庭で歌っていたのは、なんという曲なのだ？」
　どういう意味合いのものなのかビッテンフェルトにはわからないが、歌姫リーゼロッテはクスクスと忍び笑いを洩らしながら答えてくれた。案外、こんな名曲を知らないのか？　とでも思ったのかもしれない。　
「スターダストと言うんです」
　星屑か……　なんとも、昨夜のシチュエーションにマッチした選曲である。
「オペラか何かの曲なのか？」
　次の瞬間、リーゼロッテは堪えきれないとでもいった風に笑いだした。兄から聞いてはいたが、まさかこれほど芸術に疎かったとは。
「何か笑えるようなことを言ったか？」
　が、当のビッテンフェルトの方は、彼女が一体何に対して笑っているのかがわからず、困惑していた。
「い、いえ……　なんでも……　ククク」
　さすがに悪いと思ったのか、一生懸命笑いを押さえ込もうとしているようだが、努力の成果が出ていないようで、そのうち彼女の目尻にはうっすらと涙が浮かび始めた。そこまで笑えるもんなのか？
「ほ、ホントにご免なさい……プププ」
　リーゼロッテが笑いのドツボから解放されたのは、それから五分は経とうかという頃になってやっとだった。
「あれはジャズのスタンダードナンバーなんです」
　その答えを聞いて、あれ？　とビッテンフェルトは思った。
　歌姫としての彼女が多く歌うのは、いわゆるクラシック。特に宮中の晩餐会ではそれは必須である筈である。
　いくら芸術に疎いビッテンフェルトでも、さすがに逃げ出すわけにはいかない公式の晩餐会には何度か出席している身なので、それくらいの知識はあるのだ。
　恐らく昨夜の晩餐会場で披露したものも、そういった類のものだろう。だから、てっきりオペラ歌手だと思っていた。
　それでも同じ音楽だから、オペラ歌手がジャズナンバーを歌えないことはないだろう。が、やはりジャンル違いであることは否めない。ましてや、中庭でコッソリ歌うなどという行為から、恐らく公にはなっていない事実なのかもしれない。
　また、同盟と違い帝国では、旧ゴールデンバウム王朝の体制からかクラシック以外のものはあまり擁護されなかった節があるのだ。つまり、鑑賞する人間も極端に少ないといえる。
　それでも一般庶民なら、貴族の趣味なぞ知ったことかと言いそうである。が、彼女は没落したとは言え、貴族の一員なのである。しかも、あのリップシュタット戦役では反ラインハルト側についたという曰わく付きの名門貴族である。
「さすがにこれまで大きな声では言えなかったんですが、私、クラシックよりもジャズやボサノヴァの方が好きなんです」
　ビッテンフェルトの表情から彼の心中を的確に読みとったリーゼロッテは、苦笑しながらそう言った。

「実は、同盟との国交も樹立されたことですし、リーゼロッテをハイネセンへ行かせようかと思うのですよ」
　ファーレンハイトの言葉は、ビッテンフェルトを奈落の底まで突き落とした。
　確かに、このまま帝国にいたのでは、彼女の好きなジャズやボサノヴァを極めることはできないだろう。
　しかし、これでは失恋は免れない。いや、まだ相手に何も告げてないのだから失恋以前の問題か。
　昨夜出逢ったばかりで、些か唐突すぎると思わないでもないが、恋とはそういうものだろう。ファーレンハイトの妹という点が少々引っかかるが……
　そう、あきらかにビッテンフェルトはリーゼロッテに惹かれていた。正確には歌声に……　であるが。そもそも、彼は彼女の歌声以外何も知らない。
　が、それもある意味、恋の形だろう。人間、恋に堕ちる時など、案外そんな些細な理由からなのだ。
「そ、そうか……　それはおめでとう」
　なにが目出度いのか意味不明の言葉であるが、ビッテンフェルトの精一杯の気持ちが込められたものでもある。
　戦争が終わり、好きなことを好きなようにできる時代になったのだ。ましてや、それをこれまで敵国と見ていた国で叶えることも可能になったとあらば、やはり目出度いことに違いない。
　ビッテンフェルト個人からすれば、目出度いどころか不幸この上ないことであるが。もっとも、彼女がハイネセンなどにいかなくて此処にいたとしても、告白することができたか否かはビッテンフェルトにもわからない。
　豪放に見えて、実は案外気の小さいところがあるのだ。特に女性関係はからっきしなのである。
　ともあれ、ビッテンフェルトの内心の葛藤など目の前の似たもの兄妹にとっては何処吹く風であることには違いなかった。

　というわけで、同盟とのセレモニー関連の行事が一通り終わった頃、リーゼロッテの姿はフェザーン宇宙港にあった。
　あの「スターダスト」を口ずさみながら、彼女は出国手続きを済ませ、そしてゲートへと向かう。これから宇宙へ出ようというのだから、その選曲はわかりすぎるほどわかる。
　家族、特に大好きな兄アーダルベルトとは、昨夜のうちに別れを済ませた。彼は今日、元帥府内で重要会議があるため、見送りに来られないのだ。仕事ではしょうがないとわかっていても、やはりどうしても一抹の寂しさを感じてしまう。
　戦時下にあったこれまで、兄は出撃の為に家を明けることが多く、見送る側は絶えず突然の永遠の別れの恐怖に苛まされていた。
　それ故、彼女とファーレンハイトは他人から見れば異常ととれるほど仲が良かったのだ。
　その兄から、彼女は自らの意思で離れていこうとしている。と、そのとき……
「リーゼロッテ！！」
　自分を呼ぶ声に、彼女はハッとしたように足を止めて辺りを見渡した。一瞬、兄の声に聞こえたような気がしたのだ。が、そんなことなどあろう筈もないと思いなおし、彼女は再び歩を進めようとした。
「行くな！！」
　空耳でもなんでもない……　と確信した。振り返ると……
「へ？　ビッテンフェルト提督？」
　なんでここにビッテンフェルトが？　正直なところ、彼女にはその訳がわからなかった。兄からなにか伝言でも頼まれたのだろうか？
　ビッテンフェルトは、困惑と疑問符を湛えた彼女にお構いなしに、息を弾ませながら再度言葉を綴った。
「行くな」
　行くなって、つまりハイネセンへ行くなということだろうか？　でも何故ビッテンフェルトが？　シチュエーションがまったくわからず、彼女は困惑した。
「あのぉ……　急に行くなと言われても……」
　兄がそう言うのならわかるが、ビッテンフェルトが言う理由がわからない。が、ビッテンフェルトの方は、肝心な言葉を抜け落としたままで、尚言い募る。
「だったら俺も行く！！」
「はぁ？」
「カイザーに願い出て、ハイネセン勤務にしてもらう！！」
　ビッテンフェルトは、とにかく押せ押せムード一色で迫る。が、リーゼロッテの方はまったくもって意味不明な状況で……　二人の会話が噛み合っていないところが、かなり問題であった。　
「い、いやぁ、そこまでしなくても」
「いや、俺はもう決めたぞ」
「でもそんなことしてもね……」
「決めたと言ったら決めた」
「でも、私すぐ帰ってくるんだけど」
「……………………」
　数秒間の沈黙。決死の覚悟で言い募ったこれまでの言葉はいったい何だったのだろう？　
「あの〜〜私、ハイネセンに永住するなんて一言も言ってませんけど」
（へ？）
「向こうの業界がどんなもんなのか、見てきたいと思って。いわば社会見学なんですけど」
（は？）
「そうですねぇ、とりあえず一・二ヶ月ってところかな」
　ビッテンフェルトは思わず脱力して、その場に座り込んだ。
「ちょっ！？　大丈夫ですか？」
（気が抜けた）
　しかし、リーゼロッテの方は、この騒ぎがの根底にあるものがわからず仕舞いで、いまだに頭の中が混乱状態である。
「あの〜〜、何故ビッテンフェルト提督が私を引き留めるんです？」
　と、ここにいたって、ビッテンフェルトはようやく自分が一番肝心なことを彼女に告げていないことに思い至った。
　大間抜けな話である。とにかく、彼女が行ってしまう〜〜とばかりに、取るものも取りあえず宙港まで駆け付けたのだが、そもそもその思いこみが、またしても彼を猛進させてしまったようだ。
「いや、あの、その……」
　先程までの勢いはどこはやら……　しどろもどろのビッテンフェルトである。
「その……　す……　好きです！！　結婚して下さい！！」
「は？　あの？」
　愛の告白をすっ飛ばしてのいきなりのプロポーズに、リーゼロッテの困惑は先程以上だったに違いない。が、ここは質のわるい兄妹の片割れだけのことはあった。
「お断りします」
　ハッキリキッパリ、彼女はこう言ったのである。
　ガックリと肩を落としたビッテンフェルトに対して、彼女はこう続けた。
「お互いのことを何も知らないのに結婚だなんて、ちょっと軽はずみすぎます」
　反論の余地もない、ご尤もな言葉である。
「ということで、お付き合いしましょう」
「は？」
　今度はビッテンフェルトの方が、意味不明という表情をした。
「だから、お互いを知らなければ返事のしようもないでしょ？　だからお付き合いしましょう。ただし、私がハイネセンから帰ってきてからでよければですけどね」
　一瞬、リーゼロッテの脳裏に兄の顔が浮かんだ。兄は、なんと言うだろうか……　渋い顔をするか、それとも笑い飛ばすか。これはこれで見物である。
「というわけで、そろそろ出発時間なので行きます。返事は？」
　彼女の勢いに圧倒されたのか、ビッテンフェルト咄嗟に返事を口にした。
「ja」
　なんだか、ファーレンハイト兄妹に振り回されっぱなしという気がしないでもないが、それでも一応ビッテンフェルトは幸せだった。