wish



 見ようとして、それを目にしたわけではない。
 持ち帰った書類から顔をあげたとき、ようやくソリビジョンが付けっぱなしになっていることに気付いたのだ。
 消そうとリモコンに手を伸ばし、だがロイエンタールはその画面に見入った。
 ソリビジョンの向こう側では、己を憎んでいる筈の女の膝枕で、男が眠っている。
 それまでのロイエンタールなら、所詮三文ドラマのワンシーンと一笑に付し、欠片もその記憶層に残さない筈のその情景が、だがその時はやけに鮮烈にロイエンタールの脳裏に焼き付いた。

◇◇◇◇◇

 深まりゆく秋の夕暮れ、ヘネラリーフェはロイエンタールの私邸の広大でいて手入れの行き届いた庭の一角に座を占めていた。
 色付き始めた木々と小川を、傾きかけた陽が茜色に染め上げる。
「あいつは嫌いだけど、この庭はなかなかなもんよね」  
 毎日毎日ロイエンタールの言いつけを守らされ、屋敷に閉じ込められ、更に嫌いな男と顔を付き合わせて食事をするという生活にいい加減癖壁しているヘネラリーフェにとって、ロイエンタールの帰宅する前の時間はいわゆる一時の息抜きの時間と言える。
 とは言っても、絶えず使用人の視線を背後に感じながらではあるのだが……それでも、ロイエンタール本人と比べれば大分マシだろう。
 が、そのロイエンタールの態度も、ここに連れてこられた当初を思えば、かなり軟化してきていた。ヘネラリーフェの方も、嫌いと言いつつも実は当初ほど毛嫌いしているわけでもない。
 ロイエンタールの過去を知り、そして共に陰謀に巻き込まれ、それを共に打破したということが、多少なりとも二人の感情と態度に影響を及ぼしているのだ。
 更に言えば、ロイエンタールはヘネラリーフェに惹かれている。これがロイエンタールのヘネラリーフェへの態度を変えた一番の要因だろう。
 が、やはり捕虜と敵軍将校という関係は変えようもないのだから、ロイエンタールの方はともかくとしても、ヘネラリーフェがわだかまりを捨てきれないでいるのは、どうしようもないこととも言えた。
「息が詰まるのよね」
 ヘネラリーフェが溜息と共に呟いた。
 ロイエンタールに従属させられることではない。彼のヘネラリーフェを見る眼差しが苦しいのだ。幼い頃から情をかけられず、愛を知らないままの男の縋り付くような眼差しが……
 それが何を意味するのか、ヘネラリーフェは敢えて考えないようにしていた。そうでなければ、己を保てそうになかったから。
 自分を捕虜にし、そればかりか貞操を奪った男に対して、憎しみ以外の感情を持つことを自らで禁じたのだ。だがそれがかえって自らの心を雁字搦めにしていることに、ヘネラリーフェはまだ気付いていなかった。

◇◇◇◇◇

「またここにいたのか」
 突如、背後から低く艶のある声がかけられた。
「!?」
 思わずビクリと躰を竦ませ、そしてそんな自分の、すっかり捕虜根性の染みついた態度に憮然としながらヘネラリーフェは振り返った。
「何よ、文句あるの? それとも、私はあんたの許しがなければ庭にも出てはいけないわけ?」
 ついつい棘のある言葉を吐いてしまう。もはや習慣と言えるかもしれないが……
「別に文句はない。体調が良いなら好きにすればいい」
 ヘネラリーフェの棘のある言葉に、ロイエンタールは端麗な口元に苦笑を浮かべながらそう言った。
 戦闘で負った傷以外に、ヘネラリーフェの躰には先日のリートベルクの事件で負った傷もある。また、得体の知れない薬物の後遺症も残っている。ロイエンタールは、それらを気に掛けていてくれたのだ。
 戦闘態勢万全で舌戦に挑もうとしたヘネラリーフェだったが、ロイエンタールの言葉に気勢を削がれた感じになり、それ以上言い返すことはできなかった。
 そもそも、気遣ってくれる相手に喧嘩を吹っかけるほどヘネラリーフェは意地悪ではない。ただし、あくまでも時と場合によりけりではあるが……
 大人しく黙り込んだヘネラリーフェの傍らにロイエンタールが腰を降ろす。咄嗟に膝をずらしロイエンタールから離れようとしたヘネラリーフェだったが、結局思いなおしてその場に留まった。
 次の瞬間、ロイエンタールは微かに溜息を付きながら、芝の上にゴロリと寝転がった。暫しの沈黙……
「つ……疲れているみたいね」
 少しの間をおいて、気遣う言葉がヘネラリーフェの可憐な口元から放たれた。珍しくロイエンタールの表情に疲労の色が見て取れたのだ。が、あくまでも言葉尻は突っ慳貪に……である。
「ああ……例のリートベルクの件の事後処理がな……」
 なるほど。リートベルクの一件はそれだけを見ればただ単に私欲に溺れた貴族の起こした些細な騒ぎに過ぎないのだろうが、見方を変えればリップシュタット後も生き残る表向きはラインハルト側に付いた貴族達の闇の部分が吹き出したと言えなくもない。
 更に、ロイエンタールはローエングラム元帥府の重鎮であり、軍人とは言え政治向きのことからも切り離せない立場にあるのだ。しかも今回の事件に至っては、彼は当事者でもある。
 ヘネラリーフェはブラウシュタット侯爵家の唯一の生き残りであり、時が時なら後継者でもあるが、現在の彼女の身分は同盟将校であり、つまりこの件に関しては被害者ではあるものの事後処理に至っては関係者ではない。
 暴れるだけ暴れてハイさようならでも一向に構わないし、現にそうなっている。が、ロイエンタールの方はそうはいかないのである。
(ちょっとやりすぎたかなぁ)
 あそこまで暴れまくることはなかったのかもしれない。
 ローエングラム公の御前に「静かに」出頭するだけでも十分事件をおさめることができたかもしれないと思うと少々ロイエンタールが気の毒な気がして、ヘネラリーフェの中に自分を助ける為に怪我までしてくれた男に対しての温情が芽生えた。
「……もうちょっとこっちへいらっしゃいよ……」
「?」
 良く聞こえなかったのか、それとも言葉の意味を計りかねたのか……金銀妖瞳が疑問符を湛えて青緑色の双眸を見やる。
 真摯な眼差しに絶えきれず、ヘネラリーフェは咄嗟に視線を逸らすと、そっぽを向きながら同じ言葉を紡いだ。
「そんなところで寝ころんでいると身体が痛いでしょ? もうちょっとこっちにいらっしゃいよ」
 そう言いながら己の膝を指さした。
 一瞬の沈黙。だが、ロイエンタールはヘネラリーフェの素直でない態度に苦笑を誘われながらも、好意を素直に受け入れることにした。
 ヘネラリーフェの華奢な腕に導かれるまま、彼女の膝に頭を乗せる。と、その瞬間あのドラマのワンシーンがロイエンタールの脳裏に甦った。
 憎んでいる筈なのに、なのに女は男に膝を貸し……
 愛し合っている恋人同士のような安寧は二人の間にはない。あるのは緊迫感。だが、その中でも男が確かに幸福感を味わっているだろうことはわかる。
 なぜなら、ロイエンタール自身がそうだから……
 憎まれているとわかっていても、惹かれゆく心を押し留める術を、ロイエンタールは持ち合わせていなかったから……
「……寒くないの?」
 ボソリとヘネラリーフェが問い掛ける。
 秋の夕暮れ。空は茜色から夕色へと変化を遂げようとしている。風も冷たさを増す。如何に屈強の軍人とは言え、このままでは風邪を引きかねない。
 それに、実のところロイエンタールとて病み上がり(正確には負傷後)なのである。
「ああ……」
 だが、気遣うヘネラリーフェの言葉に端的にそう答えたきり、ロイエンタールは目を閉じてしまった。
(風邪ひいても知らないから)
 ヘネラリーフェは軽く溜息を付きながら、苦笑とも憮然ともとれる表情でロイエンタールを見つめる。
(寝首をかかれるとは思わないのかしら……)
 物騒なことを考えるヘネラリーフェの膝の上で、数瞬後にはロイエンタールは安らかな寝息をたてていた。

◇◇◇◇◇

(ダグ……)
 どれくらいの時間をそうしていたのだろうか……
 自らの心の中での無意識の呟きに思考を引き戻されたヘネラリーフェは、いつしか自分がロイエンタールの安らかな寝顔に亡きダグラスの姿を重ねていることに気付いた。
 そういえば互いの休みが重なった時など、どこに出掛けるわけでもなく、ハイネセンの自宅の庭で日がな一日ダグラスに膝を貸していたことがあった。無論その逆も……
 義父母に引き取られたばかりの頃は、義父ビュコックやダグラスがよくヘネラリーフェを膝枕で眠らせてくれたものだ。
 形勢が逆転したのはいつの頃だっただろうか? 気がつけば、戦闘の疲労の残るダグラスをヘネラリーフェが膝枕で眠らせることが多くなっていた。
 その行為が長時間に及ぶと、体制を変えることができないことと、ダグラスの身体の重みの所為で足が痛くなってくるのだが、安らかな寝息をたてるダグラスを起こしたくなくて、ひたすら我慢したこともあった。
 足の痺れで、立った途端バランスを崩して倒れかけたところを、危うくダグラスに抱き止められたことも今では懐かしい想い出だ。
 そんなことをつらつらと考えながら、ヘネラリーフェは不意にある想いに到達した。
(ひょっとして……ロイエンタールって膝枕してもらったこともないんじゃ……)
 両親のロイエンタールへの愛情が皆無とあっては、恐らくそんな行為を望むことは無理だっただろうことは容易に想像できる。
 豪奢な屋敷の中には、親であることを放棄した夫婦のかわりにロイエンタールを育てた人間がいる筈である。が、それとこれとはまた別問題だろう。
 なんの見返りも求めない無垢な愛情……それこそが幼い子供に必要なものである。
 この人は自分を無条件に愛し、そして守ってくれる。絶対に自分を裏切らない……その強い信頼こそが親子の、そして人間同士の絆である。
(ダグラスのことを想い出すのは確かに辛いけど、でも想い出は暖かいものでもあるわ)
 暖かい想い出は、己の荒んだ心を癒してくれる。だが、ロイエンタールにはそれは与えられなかった。
 与えられない者と失った者とでは、一体どちらの方がより不幸なのだろうか。
「…………」
 ヘネラリーフェは無言で羽織っていた大判のショールを肩から外すと、横たわるロイエンタールの身体にそっと掛けてやった。
 ショールが掛けられる感触でロイエンタールが薄く目を開く。
「別にあんたの為じゃないからね。風邪でもひいたら、執事さんの仕事が増えるでしょ!」
 強い調子で言ってしまった後、少しだけ後悔した。もう少し優しい言葉を掛けてやっても良かったのかもしれないと……
 だが、ロイエンタールは気にした風もなく再び目を閉じた。端麗な口元に微かな笑みが浮かんだことに、果たしてヘネラリーフェは気付いていたのだろうか。

 その時、ロイエンタールの鼻孔を清潔感のある優しい香りが擽った。
(この香りは……)
「つけてくれたのか?」
 目を閉じたままのロイエンタールの問い掛けに、ヘネラリーフェはどことなくバツの悪い顔をしながらも小さく頷いた。
 それは、ロイエンタールからの贈り物……「wish」と言う名の香り。ヘネラリーフェの身からショールへ、そしてロイエンタールへともたらされた移り香。
 それはどこか人と人を結ぶ絆にも見えて……
(なるほど……wishとはまた言い得て妙な……)
 ロイエンタールは内心で呟いた。
 思いがけず目にしたあるドラマのワンシーン。いつもの自分なら三文ドラマとせせら笑う筈のそれを、彼は意識の奥に留めた。
 それは憧れ……
 それは希望……
 いや、そうではない。無意識のところで絶えず求め続けたそれは……
「いい気持ちだな」
 ロイエンタールの呟きが暮色に染まる空に旋律のごとく流れていく。
 香水の香りことを言っているのだろうか? それとも、ヘネラリーフェに抱かれる心地良さを言っているのだろうか……
 だが、その呟きはヘネラリーフェの心を動かした。
 少し躊躇いながら、だが彼女はロイエンタールの艶やかなダークブラウンの髪に細く優美な指を絡め、そして梳く。
 それはまるで母親が子供の頭を撫でてやる仕草にも似て……ロイエンタールは至福の刻に暫し酔った。
「いい加減にしないと、ホントに風邪ひくわよ!!」
 突っ慳貪な言葉と共に、ロイエンタールの頭部に微かな痛みが走った。ヘネラリーフェが髪を引っ張ったのだ。
「痛ッ」
 思わず顔を顰めながら金銀妖瞳を開く。と、そこには言葉と態度とは裏腹に悪戯っぽい笑みを湛えたヘネラリーフェの青緑色の双眸があった。
「まだ……」
 言いかけたロイエンタールの言葉をヘネラリーフェの言葉が遮る。
「膝枕くらいなら、いつだってしてあげるわよ。それに、外じゃなきゃいけないって法はないでしょ!!」
 照れ隠しなのか、ロイエンタールを見ないように目を逸らしながら言うヘネラリーフェの姿にクスリと忍び笑いを洩らすと、ロイエンタールは勢いをつけて起きあがった。
「その言葉、忘れるな。これは命令だ」
 ロイエンタールらしい不器用な言葉。だが……
 ヘネラリーフェは一瞬ムッとしたような表情をしたものの、それはすぐに苦笑へと変わった。
「ったく、ホント高飛車な男ね」
 憎まれ口と柔らかな香りが風に乗ってロイエンタールの元に運ばれる。

「wish」……それは「望み」という名の香り。

Fin

*かいせつ*

もんさんのリクエストにより書かせていただいた「リーフェの膝枕で眠るロイ」でございます。甘甘になりすぎない、甘甘といったところでしょうか(笑)
まあ、二人のあんな性格(特にヒロインの性格がネック=爆)からすれば今はこれが最大限なんだろうなぁと作者は思っているのですが。
えっと、題名の「Wish」ですが、これはショパールというところから出ている香水の名前です。ユズや洋なし、バニラといった香りをシクラメンの優しい甘みが纏めている、甘い中にもスッキリ感のある香りで私も気に入っているのですがぁ!! 実は持ってはいないんですよ(笑)
作中でも書いているように、清潔感のある優しい香りというのがとりあえず(?)リーフェに似合うかなぁと思ったことと、「Wish」の言葉の意味からこの題名にしました。
「Wish」の意味は、……したいと思う/〜に……してもらいたい/望み・希望 というもので、このお話では、「〜に……してもらいたい/望み・希望」あたりの意味合いを念頭にしてます。
ただこの香り、永久的にリーフェの香りにするつもりはなかったりして……(^^;;)
というのも、「Wish」は彼女には少々優しすぎる香りのような気がするんですよねぇ(爆)
ところで……なぜ香水ネタなのかというと、なんのことはない、私が好きだからです(^^;;) 実は昔の衝動買いクセ(?)が再燃しちゃいまして、最近5本も香水を一気買いしちゃったのよね。旦那にバレタラ大目玉だろうなぁ(ヒヤヒヤ)
でも香水というもの、同人屋にはいたって美味しいアイテムなんですよねぇ(笑)
それからこのお話の背景ですが、「銀河狂想曲」本編の九章の中間あたりのつもりです。なので、ロイもリーフェもちょっち怪我人テイスト(笑)
だから、ついついリーフェは優しくなっちゃって、ロイは甘えっ子(^^;)モードなのね(大笑)

2001/3/14 かくてる♪てぃすと 蒼乃拝