はなびらひとひら
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可憐な薄紅色の花弁が鮮血の色に染まっている。
雪のように降り積もった花弁の上には、狂気のうちに果てた自分と良く似た面差しの美しい女性の細い肢体。 その肌は異様に白く、そして生気も感じられない。 息吹も吐息も憎悪の瞳も、そして鼓動も…… 耳に残るのは昏い呪詛の言葉。 『お前など、産まなければ良かった』 自らが発した声にならない呻き声で、ハッと目が覚めた。 全身を冷たい汗が伝う。 鼓動が痛いほどに胸を打つ。 それをやり過ごすと、ロイエンタールはゆっくりと身を起こした。 屋敷中が寝静まっているのだろう…… 辺りは静まりかえり、部屋の中は闇の中に沈んでいる。 ロイエンタールはその希有な二色の瞳をベッドの横に向けたが、いつもそこにいる筈の愛しい存在は、今夜は存在しない。 ゆっくりとベッドから降りると、彼は窓辺に寄り、カーテンを開けた。 今夜は月もなく、広い森のような庭園は屋敷同様に深い闇の中に沈んでいる。 庭園の向こうに、闇を凝縮したような空間があり、ロイエンタールはそこを凝視した。 「どうしたものか……」 自嘲めいた独語が端麗な口唇から零れ落ちる。 すぐ傍にある幸福に慣れ、気付かぬ所で蔑ろにした報いが今…… 現状打破の為に行動を起こせない自分自信が、とてつもなく歯痒い。 ロイエンタールはフッと溜息を吐くと、ソファーに深々と腰掛け、何かを考えるかのように目を瞑った。 事は３日前に遡る。 安らかな眠りをブチ破ったのは、私室の居間である隣室から聞こえるヴィジホンのけたたましい呼び出し音だった。 ロイエンタール家の主寝室に直接掛かってくるヴィジホンと言えば、緊急性を含む物しかないと判断したヘネラリーフェは、けたたましい音に眉を顰めながらも、ヴィジホンに応えなければなければならない筈の当の本人であるロイエンタールの代わりに出た。いや、出てしまった。 「全く、どうしてこんなに五月蠅いのに眠っていられるのやら」 それとも敢えて無視しているのか、ロイエンタールが起きる気配はない。 だからしょうがなく…… と言うのがヘネラリーフェの言い分だが、それがそもそも間違いの元。 画面に映し出されたのは、ロイエンタールの盟友ミッターマイヤーでも、敬愛する皇帝ラインハルトでもなく、見覚えもない『女性』だったのだ。 しかも朝一番だと言うのに、夜会に出る前か後のように煌びやかに着飾っている。 『ヤバイ』 そう思ったものの、時既に遅し。 ヘネラリーフェはロイエンターヘの恨み言も含めた自分への糾弾を一身に浴びてしまう羽目に陥った。 相手の女性は、そもそもヘネラリーフェの出で立ちからして気に入らなかったようだ。 だがそれはしょうがない。紅い肌襦袢を相当に着崩した（相手には寝乱れたと取れたろうが）姿では、女性だけでなく、誰が見てもあらぬ事を想像するだろう。 ヘネラリーフェは心の中で「朝一番のこの時間に連絡して来る方が礼儀知らず。礼を失する姿なのは当たり前だ」とは思ったものの、だが敢えて女性の『それ』に対する糾弾に対しての異は唱えなかった。 だが話しはそこで終わらない。 要点を纏めれば、結局ロイエンタールに約束をすっぽかされ、歌劇場で一夜を過ごす羽目になり、それで怒り心頭に至って恨み事を言う為に連絡を入れた…… と言う事らしいのだが、その原因が『ロイエンタールがウッカリ忘れていた』ではなく『出掛けようとするロイエンタールを女の悋気に至ったヘネラリーフェが無理に押し留めた』と言う事になっているのに対して、彼女は内心で溜息を吐いた。 よくある事だ。 そう取られる事は多々あるし、多々あった。 貴族という独特の高慢ちきな感性からか、『私との約束を反故される』とは、彼女達は露ほどにも思っていないのだ。 守られて当然の約束。来なかったのは向こうに（今回の場合はロイエンタール）に原因がある。 そう思い込み、その原因をヘネラリーフェに置き換えてしまっているのだ。 彼女にしては甚だ迷惑な話だが、ヘネラリーフェの常識に当てはまらない人種に何を言っても無駄である為、ヘネラリーフェは糾弾の内容が『元捕虜のくせに』と言う、それこそ人間の尊厳を無視した発言に及んでも、やり過ごした。 だが、それでもあちらの怒りは静まる所を知らず、内容が『売春婦』だの『淫乱女』だのとエスカレートした時、さすがのヘネラリーフェもサジを投げ、女性を待たせたままロイエンタールを叩き起こす事にした。 「ロイエンタール、お・き・て♪」 上掛けの上から優しく抱き締めると、ヘネラリーフェは薄紅色の可憐な口唇で眠るロイエンタールの瞼に口付けた。 暫しの睡魔との格闘の末、ロイエンタールがゆっくりと目を明ける。 「おはよう、お寝坊さん」 笑顔満開のヘネラリーフェの青緑色の瞳に魅入られるようにして、ロイエンタールが端麗な口唇を彼女に寄せた所で、細い指が口唇と口唇の間に割って入った。 「起き抜けの所をなんだけど、緊急のヴィジホンが入っているの」 それだけしか告げない所が、ヘネラリーフェの性格の悪い所だ。 ロイエンタールはてっきり仕事の件だと思い、素肌に直接ガウンを羽織って寝室を出る。 そして向かい合った画面の先には…… ロイエンタールは内心で固まった。 そもそも、私室直通のヴィジホンのナンバーは、それこそ最愛のヘネラリーフェと軍の上層部しか知らない。そこにヘネラリーフェ以外の女から連絡が入る事などあり得ない事だし、あってはいけない事だ。 『どうして分かったんだ？』 些かパニクった頭で考えるが、掛かってきてしまっている事実がある限り、それは無駄な行為でもある。 そう思い至った彼は今度は『ヘネラリーフェにどう説明するのか』で悩み始めた。 いくら寛容な彼女でも、私室へのプライベートナンバーに見知らぬ女から連絡が入れば、それなりに気分を害するだろう。 なんとか女性を宥め、仕方なくもう一度観劇の約束を渋々取り付けた所で、漸くヴィジホンから解放された彼は、寝室にいる筈のヘネラリーフェの元に一目散に戻った。 彼女に言い訳など通用しない事は承知している。 今回は明らかにロイエンタールの失態だ。あまりに誘いがしつこいから、仕方なくデートの約束をしたのだが、うっかり失念していた。 結果、恐らくヘネラリーフェを中傷誹謗の矢面に立たせてしまっただろう。 傷付いているに違いない…… そう思うと言い訳など全く役に立たないと分かっていても、ヘネラリーフェにキチンと説明をしないと気が治まらないと思ったのだ。 寝室の重厚な扉をロイエンタールらしからぬ怯えた様子で開けようとすると、ロイエンタールがノブを回す前にそれは開いた。思わずビビって手を引っ込めたロイエンタールの眼前には、夜着に使っていた長襦袢の上に最近気に入りの桜色の桂を羽織って身支度を調えたヘネラリーフェが立っていた。 「さっきのヴィジホンだが……」 言い掛けたロイエンタールの言葉を阻むように、ヘネラリーフェが軽く言い放った。 「桜が見頃だから、私暫く離れに行くね」 怒っている様子はない。 ロイエンタールを魅了して止まない青緑色の双眸は穏やかな光を多揺らせていたし、可憐な口元には微笑が浮かんでいる。 だから…… だからこそ、ロイエンタールはヘネラリーフェを止める事が出来なかった。 そして、いつもなら当然の如く強引に同行する所をそうする事も出来ず、ヘネラリーフェが軽やかな足取りで庭を横切って庭の奥深くに入って行くのを、声もなく寝室の窓から眺める事しか出来なかったのである。 あれから３日…… ヘネラリーフェが離れから戻って来る気配はない。 どうやら召使い達には、食事を運ぶ以外は近寄るなと言うお達しが出ているらしく、様子を聞く事も出来ない。 それがロイエンタールの心労を生んだ。 気になるのなら、敷地内の歩いていける場所にあるのだから、離れに様子を見に行けば良いものを、今回はどうしても出来ない。 ヘネラリーフェは言葉通り、本当にただ桜を愛でる為だけに離れに行っているだけなのかもしれないではないか…… そうは思うのの、気が咎めているのだろうか…… ロイエンタールは怯えにも似た気持ちを持て余し現在に至っている。 そんな時、ロイエンタール家は珍客を迎えた。 「何しに来た」 超絶に苦手な男に対してのロイエンタールの態度は容赦がない。 が、恐らくこの手のやり取りではロイエンタールの更に上をいくだろう相手は動じず、彼に勝るとも劣らない美丈夫ぶりでその端麗な口元に嘲笑を浮かべた。 「友人に会いに来てはいけないという法律が帝国にはあるのか？」 初耳だな…… 放っておけば高笑いでもしかねない相手に冷徹な一瞥を与えると、ロイエンタールは渋々といった体で執事に離れに案内するように命じた。 だが、内心で『これでリーフェの本心が伺い知れるかも知れない』と思った事も真実である。 離れの玄関からは案内も請わず、シェーンコップは中に入りヘネラリーフェがいるだろう本間に向かって歩を進めた。 ロイエンタールの様子からも、そして彼女が本邸ではなく離れに１人でいる事対して、シェーンコップの鋭敏な神経は何かあった事を既に察知している。 が、それをおもんばかってか否か、シェーンコップは遠慮なく本間の襖を勢いよく開けた。 最初に目に入ったのは、障子を開け放して縁側で脇息に凭れながら、柔らかな日差しに煌めく琥珀色の長い髪を春の微風に靡かせる様。 その次には、振り向いたビックリ眼の青緑色の瞳。 「めっずらし〜〜〜 どーしたの！？」 シェーンコップの来訪に本気で驚いてはいるものの、あっけらかんとしたいつも通りの口調からは、何かを感じ取る事は出来ない。 「たまたまフェザーンに来る用があってな。来てはいけなかったか？」 「まさか、訪ねて来てくれて嬉しいに決まっている」 ヘネラリーフェは嬉々とした笑顔でシェーンコップを迎え入れると、いそいそと桜湯を入れ始めた。 「ヤン提督も一緒？」 「いや、今回は俺１人だ」 プライベートだからな…… その事に対して、ヘネラリーフェは深く言級はしなかった。 そう言った理由で度々シェーンコップが、自分を気遣って訪ねて来る事がある事に思い至ったからだ。 桜湯を飲み一息吐いた所で、シェーンコップはヘネラリーフェに鋭い視線を向ける。 「ここで何をしている？」 「何って、見ての通り花見だ」 嘘ではない。それはシェーンコップにも分かった。 だが、同時に違和感が頭を擡げ、そしてすぐにその理由に思い至った。 「嘘だな」 「何が？」 「花見が」 ヘネラリーフェは唖然とした。 「何を言い出すかと思えば……」 ヘネラリーフェが堪えきれずに笑い出す。 だがシェーンコップの声は厳しさを増した。 「前線暮らしが長い所為で徹底した快楽主義者になったお前が、酒の一滴も呑まずに花見とは思えんな」 笑いが引っ込んだ。 言い返せなかった。 花見と洒落込んだ事は本当だが、確かに此処に来てから酒を呑む気にならなかった事を思い出したのだ。 「何があった？」 「何と言われてもねぇ」 思い当たらないとでも言いたげに、ヘネラリーフェが庭の桜を見やる。 「さっき、本邸で思ったが、随分と重い空気がたれ込めていたな」 正確には、屋敷にとは言うより、ロイエンタールの周囲に…… 桜を見ていた青緑色の双眸がシェーンコップに戻される。 「ああ、だったらきっとあれだな」 ヘネラリーフェの口元に苦笑が浮かび上がった。 例のヴィジホンの一件がヘネラリーフェの口から語られると、シェーンコップの口元から軽く溜息が零れた。 呆れていたのだ。 ロイエンタールの漁色にではなく、ヘネラリーフェの心理状態に。 「なるほど、だからあの男は気に病んで、重苦しくなっていた訳だ」 「あら、ロイエンタールったら気に病んでいるの？」 ヘネラリーフェがまたコロコロと笑い出す。 彼女にしてみれば、想定外の事らしい。 「だってこんな事、今に始まった事でも、初めての事でもないんだぞ」 一々気にする必要もないし、気にしていたら身が保たない。 「そもそも、ロイエンタールの心が向いていない相手など、いない存在と同じだろう？」 ヴィジホンの相手も、可愛そうだがそういう存在だ。 「あの件と、私がここに引きこもっている事には何の因果関係もない」 が、その所為でロイエンタールの気が咎めているなら、間が悪かったとしか言いようがない。 「果たしてそうかな？」 「まだ何かあるのか？」 一瞬の間を置いて、シェーンコップな真摯な言葉を投げ掛けた。 「お前、幸福か？」 「はぁ？」 想像通り、ヘネラリーフェは素っ頓狂な声を上げ、そして腹を抱えて笑い出した。 「な、何を言い出すかと思えば……」 息も絶え絶えな様子で笑いながらヘネラリーフェは言葉を紡ぐ。 「私は私の意思で此処に、ロイエンタールの傍にいる。幸福でないなら、此処にはいない」 毅然とした態度に、だが今度はシェーンコップが笑い出した。 「何が可笑しい？」 「お前は、全く自分の事には無頓着だな」 そう言うと、だが彼は急に話題を変えた。 「俺は、いや俺だけでない。ヤン提督にアッテンボローにユリアン、ポプラン、リンツ、ブルームハルト…… ヤンファミリーの全てが、いつもお前を想っている」 お前は幸福だろうか…… 笑っているだろうか…… 泣いてはいないだろうか…… 「お前が思っている以上に、お前はみんなに愛されている」 だが当の本人は頓着なく、こんな所に籠もっている。 「酒の一滴もなくたった１人で花見と洒落込んでいるのが、お前でなければ何も言わない」 だが、そうではない。 「ロイエンタールが気に病むのも無理はないな」 彼も知っている。ヘネラリーフェの快楽主義の徹底度を。 恐らく食事を運んでいる使用人から聞いているのだろう。ヘネラリーフェが酒を呑んでいない事を。 だから悩む。ヘネラリーフェが傷付いて、そして怒っているのではないかと。 「馬鹿な事を」 「お前は、お前自身でも気付けない程の心の奥底で傷付いているんだ」 傷付いて、そしてそれを無意識のうちで癒す為に、自然と離れに逃げ込んだ。 「そんなこと……」 「ないと言い切れるか？」 真摯な瞳で問われると、言葉を飲むしかない。 「さっきの質問だ」 お前は幸福か？ 「そうでないなら、俺はお前を連れて帰る」 そう言われても、自覚がなければどうしようもない。 「分かった、分かった」 結局、ここでこうして１人でいる事が波紋を呼んでいるのだ。 「本邸に戻るか、ここにロイエンタールを呼べば良いのだろう？」 どうやら本当に自覚がないらしい。 シェーンコップは呆れたように笑い出すと、琥珀色の髪をクシャリと掻き乱しただけで、あとは言急せずに何故か離れから立ち去った。 残されたのは、訳が分からないままのヘネラリーフェだけだ。 だが、彼女はシェーンコップの後を追おうとはしなかった。 いや、自分も本邸に行く為に立ち上がったのだ。 だが、動けなかった。 彼女の行く手を舞い散る桜の花弁が遮ったのだ。 「桜の結界か……」 摩訶不思議な事だが彼女は特に驚かなかった。 桜の美しさには、人外の者の意識が魅入られても不思議ではない。 そして、その人外の者の意識に自分の動きは阻まれたのだ。 「座して待つしかないようだな」 そう呟くと、ヘネラリーフェは褥の上に身を落ち着かせ、再び桜に目をやったのだった。 日が暮れ掛ける頃、離れの本間の襖を開けると、薄紅色の花弁が狂ったように舞い込む。 中を覗くと障子は開け放たれ、障子のこちら側には脇息に凭れたまま振り向きもしない華奢な躰がある。 琥珀色の髪が微風に舞っているが、彼女は微動だにしない。 『眠っているのか？』 春風はまだ冷たい。一瞬彼女の躰を想い、心配になった。 部屋の中には、桜の花弁が至る所に散らばっている。 本間の中では激しさを増した夕風が、桜の花弁を巻き込んで狂ったように踊っていた。 桜には薫りがない。だが狂ったように舞う花弁には魔性のものさえ感じてしまう。 華奢な躰は相変わらず微動だにしない。 ゆっくりと本間に足を踏み入れ彼女に近付こうとすると、愛しい存在に闇のようなものが水に墨を垂らしたかのように徐々に滲み重なった。 同時に低く昏い呪詛が耳元に流れ込む。 『お前など幸福になどさせない』 そうやって自分の信じる者を自分自身で裏切り続け、そして闇に堕ちれば良いのだ。 『許さない、私はお前を許さない』 風が一層激しく花弁を巻き上げる。 薄紅色の花弁が、一瞬鮮血を含んだような色に見えたのは気の所為だろうか…… 幼い頃の記憶が溢れ出す。 風景が薄紅色に染まる季節、狂ったまま自害した母レオノラの死体の下にあった花弁は真っ赤な血にベットリと染まっていた。 あの時思った。 自分はきっと生涯、愛した者を哀しませる運命なのだと…… 幸福になってはいけない存在なのだと…… だがヘネラリーフェの存在は、そんな昏い想いを忘れさせてくれた。 それに溺れ、甘えた。 だが…… 『駄目なのか…… 俺は幸福にはなれないのか……』 そうだ…… 実際にこうやってヘネラリーフェを傷付けている…… 色々な想いが溢れ出し訳が分からなくなる。 闇はヘネラリーフェを呑み込むかのように、益々広がった。 「やめろっ！！ レニに手を出すな！！」 自分はどうなっても良い。幸福にするのが許せないのならそれでも良い。だが、彼女には手を出すな！！ 自分を不幸にする為に、レニに危害を与えるのは止めてくれ！！ なりふり構わず叫ぶ。 「ロイエンタール！！」 我に返ったのは、優しい手で揺さぶられる感触と、少しだけ厳しさを含むアルトの声の所為。 ハッして意識を戻すと、眼前には心配そうな色を湛えた青緑色の瞳があった。 「レニ……」 「どうした？ 意識が飛んでいたぞ」 そうなのだろうか？ 今自分が見たものは何だったのだろう？ 夢か幻か？ あの闇と声は？ 「とにかく座れ。今お茶でも……」 入れて来ると言い残して歩き出したヘネラリーフェの細い肢体を、ロイエンタールは後ろから強く抱き締めた。 「どうした？」 ヘネラリーフェは、落ち着いた声を上げながらロイエンタールを振り仰ぐ。 「シェーンコップに何か言われたか？」 苦笑を含んだ声はいつもと同じように穏やかで、涼しげで、頼もしい。 「何も言われなかった」 「何も？」 「一言、あんたも苦労するな…… と言われた」 「どういう意味だ？」 「分からん。問い質したら、自分で考えろと言われた」 「で、考えた結果、此処に来たのか？」 「お前に済まなくて……」 傷付けてしまった事が悔やまれて仕方なくて…… でも、此処に来る勇気が持てなくて…… それでも怖かった。 「怖い？」 「お前に見捨てられるのが、怖かった」 その言葉にヘネラリーフェはクスクスと笑い出した。 「お前を見捨てる気なら、こんな所に隠棲などしないが」 それこそ、ハイネセンなりシャーテンブルグに帰るだろう。 「俺なりに考えた」 シェーンコップの抽象的な言葉の意味を。 何をもって『苦労」なのだろうかと。 「お前の気持ちだと思った」 ヘネラリーフェは訳が分からないという表情をした。 構わずロイエンタールは話しを続ける。 「気が付いた。いや、ずっと前から分かっていた事だ」 ヘネラリーフェが、とても強くて優しくて、そして脆いと…… 強さ故に人を許し、優しさ故に傷付く事に…… 脆い故に、強がる事に気付いていた筈だった。 「なのに、お前に甘えているうちに、俺はそれを失念していた」 そして今回のこの事件。 その時、ヘネラリーフェの口元から微かな溜息が零れた。 「あのな、ロイエンタール」 幾分戸惑いながらヘネラリーフェがロイエンタールから目を逸らし窓外に目を向けながら言葉を紡ぎ始める。 「実の所、私には分からないんだ」 シェーンコップに幸福かと問われた時、何の躊躇いもなく答えた。 少なくとも不幸な境遇とは思っていないし、今この瞬間が不幸だとは思えない。帝国の人間に罵倒されたり中傷されたりする事は、正直良い気分ではないものの、慣れた。 慣れたと言うより、他人に何を言われようが己自身が信じた道を歩いている今、後ろめたさも後悔も怖れも哀しみもないのだ。 そうだと信じて疑わなかったし、疑うつもりもない。 「だが、ロイエンタールには、私が気に病んで此処に逃げ出した来たように見えたのだな。それは、もしかしたらそうなのかもしれないし、ただ間の悪い偶然なのかもしれないとしか、答えようがないんだ」 自分自身でも気付けない心の奥底の想いに、どうしてハッキリと『傷付いている』と言えようか？ 「少なくとも、私は自分の分かる意識の上では傷付いてはいない」 ただ…… 「ただ？」 「煩わしくはあったのかもしれないな」 クスリと悪戯っぽい忍び笑いが洩れる。 朝っぱらから、ヒステリックに叫ぶ女の相手をさせられた事が。 そしてロイエンタールが気に病み重苦しい気を周囲に撒き散らした事が。 「やはり原因は俺か」 ふっと自嘲の微笑みが浮かぶ。 「まあ、今後はプライベートナンバーを女性に教えるのは止めてくれ」 遊ぶのは構わないがな…… 「どうせ、宥める為にデートの約束をしたのだろう？」 「レニ……」 不適に笑い飛ばすべきか、真摯に受け止めるべきか…… どう反応したものか困惑するロイエンタールの腕の中で彼女がふと視線を下に向けると、桜の花弁が散らばっている。 ヘネラリーフェは屈んでそれをひとひら手に取ると、再びロイエンタールを振り仰ぐ。 「桜の気に当てられたんだ」 「？」 「この花は美しい。人間のみならず、神も魔も魅せられる」 そして人の意識を取り込む。 それが負の意識ならば、魔にはさぞや美味しいものに違いない。 「この離れだけでなく、この屋敷の庭園には桜が多い」 その多くの桜の気に魅せられた魔に、してやられたのだ。 「ロイエンタールがさっき見たものは、きっとこの花の魔に当てられた所為だろう」 ロイエンタールの身体がビクリと震えた。 『俺が何を見ていたのか、レニは知っているのか？』 いやそれだけれはない。やはりあれは夢でも幻でもなかったのか…… 「魔の見せるものは、真実ではない事が多い」 だが真実味を帯びているから、人間のような弱い存在はその言葉に惑わされてしまう。 そして、それもまた桜の魅力なのだ。 その言葉には、暗にロイエンタールは親に憎まれてはいなかったのだ…… と言う意味合いが含まれているようにも思えて、ロイエンタールは『馬鹿な……』と嗤った。 「私は、ただ桜を愛でる為に此処に来た」 今はそれで良いだろう？ 清々しく笑うヘネラリーフェの姿にロイエンタールの蟠りも溶け始める。 だが、想う。 快楽主義者であるヘネラリーフェが取ったいつもとは違う行動の意味を…… もしかしたらヘネラリーフェも桜の気にしてやられたのかもしれない。 が、別の考えも浮かぶ。 『いや、俺が桜ならレニに魅せられる』 そう考えると、ある意味得心もいく。 自分の命よりもロイエンタールの命を尊び守ろうとし、彼の心の崩壊こそを一番恐れる彼女が、３日の間此処に籠もっていたのは、ある意味特異な現象だ。 『桜に阻まれたのかもしれない』 桜がヘネラリーフェに魅せられたあまり、彼女を手放そうとしなかったとしたら？ 桜に捕らわれたのだ。 だから彼女は此処から離れられなかった。 そう考えるのは、あまりに世界観がかけ離れているだろうか？ そうでもあるまい…… ロイエンタールは尚も考える。そして思った。 『桜ごときに……』 彼はこの時本気で桜に嫉妬した。 『桜ごときに、レニを渡しはしない』 子供じみた嫉妬か、はたまた敵わない敵対心か…… ヘネラリーフェを背後から抱く腕に力が込められる。 「ロイエンタール、痛い」 それには答えず更に強く抱き締める。 「苦しいぞ！！」 五月蠅い口を封じる為に、優美な指が細い頤を捉え無理矢理上向かせる。 そして、まるで桜に見せ付けるかの如く、ロイエンタールはヘネラリーフェの可憐な口唇に口付け、甘やかな舌を己のそれで絡め取り、存分に犯し蹂躙したのだった。 日が落ちて急速に闇が迫る中、仄白く浮かび上がる桜がザワリと揺れる。 嫉妬したのは、果たしてどちらだったのか…… 暫くはロイエンタールの腕の中で藻掻いていたヘネラリーフェの肢体は、程なくして彼の腕の中に力なく納まった。
Fin
＊かいせつ＊ １年ぶりの創作となると、さすがに思うように書けないと言うか、相変わらず下手っぴいと言うか、何にテーマを置いているのか全く分からないと言うか…… 2007/04/01 かくてる♪ていすと 蒼乃拝 |