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「何よ、これ〜〜！！！」
朝、私室の寝室のベッドの上で、ヘネラリーフェは新聞を引き裂いた。
同時刻、元帥府では、ベルゲングリューンがレッケンドルフを呼び止めていた。
「元帥閣下に新聞をお渡ししてしまったか？」
「あ、はい、先程」
あの、何かいけなかったでしょうか？
掬い上げるような眼差しで見つめてくるレッケンドルフに、ベルゲングリューンは「いや、渡してしまったものはしょうがない」と、溜息混じりに言い、新聞に目を落とした。
つられてレッケンドルフも新聞を覗き込む。
「さ、参謀長閣下、これって……」
その時、重厚な扉を隔てた執務室から、怒鳴り声が聞こえた。
「めずらしいな、閣下があのように声を荒げられるとは」
ベルゲングリューンの他人事のような言い方に、レッケンドルフはおろおろするばかりだ。
「そんなに落ち着いていらっしゃる場合ではないのでは？」
「では聞くが、お前になら、閣下をお止めできるのか？」
「い、いえ、それは……」
「あのお方をお止めできるのは、宇宙にただ一人しかいない」
「ブラウシュタット中将ですか？」
「ああ、そうだ」
あの方をおいて、誰がロイエンタール元帥の怒りを静めることが出来よう……
（だが……）
今回ばかりは、当てにはできない。
「流水のように怒っておられるあの方のお姿が想像できそうだ」
ベルゲングリューンが苦虫を潰したような表情で言うのを、レッケンドルフは黙って見つめることしかできなかった。
執務室からの怒鳴り声は、まだ聞こえる。
ベルゲングリューンとレッケンドルフは、恐る恐るドアを細く開いて、中の様子を窺った。（←人はそれを覗き見と言う）
「だから、出てこいと言っている！！ ３０分以内にだ。良いな！！」
荒々しく受話器を置くロイエンタール。推測するに、ヴィジホンの相手は件の新聞に関係ある人物のようであると、ベルゲングリューンは思った。
「暫く出掛けてくる。後を頼んだぞ」
「はっ」
ベルゲングリューンが敬礼すると、ロイエンタールは新聞を持ったまま飛び出して行ったのだった。
ロイエンタールが去った後、ベルゲングリューンとレッケンドルフは再び新聞を覗き込んだ。
「綺麗な方ですね」
少しロイエンタール元帥に似ていらっしゃるようにも思えます。
「だから厄介なんだろうが」
ベルゲングリューンからしてみれば、確かに新聞に写っている写真の女性は美しくて魅力的だが、敬愛する元上官のヘネラリーフェには到底及ばないと思っている。
だが、レッケンドルフの言うように、他の男なら一目で虜になるほどの美貌を供えている。
「今更、元帥閣下が他の女性に靡くとは思ってもいなかったのだが」
再び新聞の写真に目をやる。
ブルネットの巻き毛に空色の瞳。ロイエンタールの瞳が左右同じ色だったならば……と、思わせる女性だった。
ベルゲングリューンとレッケンドルフが見やる新聞の社交覧には、ロイエンタールと美貌の女性がシャンパングラス片手ににこやかに歓談している様子が激写されており、その写真の横には「ロイエンタール元帥閣下、ご結婚まで秒読みか！？」の文字が燦然と輝いていた。
「どーいうことだ、これは！！」
洒落たカフェの奥まった席で、ロイエンタールは怒気を含んだ声音で向かい合って座る女性に言いつのっていた。
「どうと言われても、私だって驚いているのよ」
写真に写っていた女性……ブルネットの髪に空色の瞳の美貌の女性は困惑しながら答えた。
「貴方には同盟軍人の愛人がいるってのは周知の事実だから、まさかこんな風にすっぱ抜かれるだなんて、思ってもしなかったわ」
溜息を吐き吐き言うものの、件の女性の態度は些か言葉に似つかわしくなかった。どうやら、状況を楽しんでいるようだ。
「ふん……世間の連中は、あいつのことを、捕虜上がりの娼婦呼ばわりしているからな」
正式に結婚するなどありえないと思っているのだろう。
ロイエンタールは苦々しげに吐き捨てた。
つまり、目の前の美貌の女性は、ロイエンタールの結婚相手に相応しいと思われる身分を供えているということになる。
「貴方がそんな風に卑屈になってどうするのよ」
捕虜上がりだって、今は同盟軍の中将閣下で、艦隊総司令官なんだから、誰も反対なんてしないわよ。それに、彼女の中には、自分以上に高貴な貴族の血が流れている。（←ヘネラリーフェは否定するだろうが）
「惚れた者同士を引き離そうだなんて、誰にも出来ないわ」
空色の瞳でウインクされると、ロイエンタールは黙り込んだ。
「そもそも、私と貴方が結婚なんて出来る筈ないじゃない」
女が楽しそうに笑う。
「まかり間違って貴方にその気があっても、倫理的に無理なのは重々承知でしょ？」
「ああ、そうだったな」
「だったら、好きに言わせておけば良いわ」
どうせ、騒ぐだけ騒げばすぐに飽きるに違いないのだから……
落ち着いた声に、ロイエンタールのささくれだった心中も少しずつ落ち着きを取り戻す。
「だが……この新聞はあいつも見ているだろうから……」
反応が怖い。きっと今頃、流水のように『静かに』怒り狂っていることだろう。
「天下の統帥本部総長閣下も、彼女には形無しなのね」
クスクス笑う女をロイエンタールは睨んだ。
その時、ロイエンタールの携帯が鳴り出した。
慌てて出ると、参謀総長のベルゲングリューンである。
「そうか。わかった、すぐ戻る」
端的にそう言って携帯を切ると、女の方を見て言った。
「悪いが、すぐに戻らねばならなくなった」
「相変わらず忙しそうね」
でも、それだけ皇帝に、そして帝国という国家に望まれているということか。
そう思うと、目の前の端正な面の男と知り合いな自分の存在が少し自慢に思える。
カフェからは二人並んで出た。
「今度、彼女を紹介してよ」
「ああ」
そう言ってカフェのドアを開けると……
（ゲゲッ！！）
ロイエンタールの左右色違いの瞳の前を、琥珀色の煌めきが過ぎった。
向こうもロイエンタールの姿を見て絶句している。
「あら、お邪魔だったかしら？」
ヘネラリーフェの可憐な口唇が意地悪な言葉を紡ぐ。
「ち、違う。これには訳が……」
珍しくも、ロイエンタールは狼狽えた。
隣で件の女性がクスクスと笑い出す。
「この方が例の彼女ね」
その言葉に、ヘネラリーフェは女を真っ直ぐに見つめた。
（琥珀色の髪か。柔らかそうな絹糸みたい。それに青緑色の瞳……綺麗ね、海みたい）
「私、失礼するわ」
「ま、待て、リーフェ！！」
引き留めるロイエンタールの声を振り切って、ヘネラリーフェは彼等に背を向け早足で歩き出した。
慌てて追い掛けようとするロイエンタールを女が引き留める。
「まあまあ、彼女のことは私に任して」
貴方はさっさと仕事に行きなさい。
そう言うと、魅惑的な微笑みを残して、女はヘネラリーフェを追い掛けるべくロイエンタールの視界から消えた。
「待って、待ってってば、フロイライン！！」
ハアハアと息を切らせながら、女がヘネラリーフェの肩に手を掛けた。
「何か、御用ですか？」
ヘネラリーフェが剣呑な眼差しを女に送る。
「あはは、やっぱり彼と私の仲を誤解しているみたいね」
女はケラケラと笑い出したが、ヘネラリーフェがムッとしたのを見て、笑いを引っ込めた。
「とにかく、どこかお店に入りましょ」
お話したいから……
「私には、別にお話はないんですけど」
突っ慳貪なヘネラリーフェの態度に、女は苦笑を零した。
「まあまあ、そんなこと言わないで」
ロイエンタールと私の関係、知りたいでしょ？
『うっ……』と、ヘネラリーフェが言葉に詰まる。
「さ、素敵なお店を知っているのよ」
そう言うと、女はヘネラリーフェの手を取って、サクサクと歩き出したのであった。
連れて行かれたのは、赤と金で彩られた豪奢なレストランであった。
「ここは……」
「あ、彼に連れて来て貰ったことがあるのかしら？」
そう、そこは『マキシム・ド・パリ』のフェザーン店だった。
「ええ、何度か……」
「そりゃそうよね」
元々は、私が紹介した所だし。
「え？」
「あの人ってば、レストランと言えばホテルって言うくらい、案外お店を知らない人だから、私が彼女でも連れて行ってあげなさいよって、このお店を教えたの」
「と言うことは……」
「ふふ、詳しい話しはお茶でも飲みながらしましょ♪」
女は軽くウインクを決めると、さっさとレストランの内部へと入って行った。
二人して紅茶とケーキを頼むと、女はウェイターに新聞を持ってきてくれるように頼む。
その新聞が差し出されると、女は件の社交覧の面を開いた。
「貴女が気にしているのは、この写真ね」
ヘネラリーフェは黙したままだ。
「ハッキリ言えば、この写真に嘘偽りはないわ」
私が彼をオペラに誘ったの。
「…………」
「でも、書かれている内容は、嘘八百よ」
「え？」
「全く、貴女という人がいるのは、この帝国では百も承知の筈なのにねぇ」
女の口唇から溜息が零れる。
「それに、私とオスカーが結婚するなんて、間違ってもあり得ないし」
「は？」
「あら、聞いてなかったのね」
女は呆れたような笑みを湛えると、爆弾発言をした。
「オスカーは私の従兄弟よ」
故に結婚は出来ない。血族婚になるから……
「えええ〜〜〜！？」
「全く、あの人ったら、肝心なことは何一つ貴女に話していないのね」
女は薄く笑うと、姿勢を改めた。
「申し遅れました。私はセレナ・マグダレナ・フォン＝マールバッハと申します」
「マールバッハ！？」
と言うと、貴女はロイエンタールのお母様の！？
「そう、彼のお母様、レオノラ伯母様の長姉の娘なんですのよ、私は」
だから、まかり間違っても、オスカーが私を結婚相手に選ぶことはない。
「彼は、自分の中に流れる血を呪っているから」
自分の中に流れるマールバッハの……母親の血を呪っているから……
「それでも、彼は私にはよく懐いてくれてね」
でも、彼が引きずる影を消すことは出来なかった。
「でも、先日久々にオペラ座で会って驚いたわ」
彼を包み込んでいた影は、すっかりナリを顰めていたのだ。
「きっと貴女の存在のおかげね」
そもそも、自分からの誘いに乗ってくることに驚いた。
「他人の目にはわからないでしょうけど、変わったわね、あの人」
人を寄せ付けない冷徹な気が薄れていた。
「でも、貴女にはよく懐いていたっておっしゃいましたけど……」
それはつまり、ロイエンタールはセレナを好いていたということなのではないのだろうか？
ヘネラリーフェの不安をセレナは一笑に伏した。
「それは、ちょっと違うわね」
彼にとって、私は姉のようなものだったのよ。
「私の母が、オスカーのことを不憫がってね」
でも、彼はマールバッハ家へ来ることを由とはしなかったから……
「母が、よくロイエンタール家に出向いて行ったのよ」
それに、私がくっついて行った。
「色んなことをして遊んだけど、隠れん坊は難関だったわ」
何故なら、ロイエンタールはいつも自分だけが知る秘密の花園に籠もってしまい、出てこようとはしなかったから。
（その花園って、もしや私が無断で入ったあそこのことかしら？）
内心で思ったが、それは黙っていた。
「ともかく、この社交覧に書いてあることは全てデタラメだから」
だから貴女が気にする必要はないわ。
「彼は私を選ばない」
マールバッハを呪う限り、ありえない。
「それに、私とオスカーってちょっと似ているでしょ？」
「そう言われてみれば……」
「つまり、私とレオノラ伯母様が似ているという訳よ」
「あっ」
「そう、要するに、彼の母親に似ている訳よ、私は」
だから、血族婚どうこう言う前に、彼が私を……母親に似ている私を選ぶことは未来永劫ない。
「貴女という存在を得たなら、尚更だわ」
だから、もっと自信をお持ちなさいな。
セレナの言葉にヘネラリーフェはコクリと頷いた。
レストランから二人揃って出ると、セレナがヘネラリーフェに言った。
「誤解も解けたことだし、明日にでも家にいらっしゃらない？」
母も久々にオスカーの顔を見たいと言っているし。
「フェザーンにもお屋敷があるんですか？」
「ええ、遷都と同時にこちらに移ってきたの」
無論、経済的には未だに厳しいマールバッハ家なので、ロイエンタール家の援助の元にだが。
「では、ロイエンタールはまだマールバッハ家の援助を？」
「そうなのよ」
ホント、義理深いわよね。
「もう必要ないって言ったんだけど（御両親共に亡くなっているし）彼ったら、聞かないのよ」
クスクス笑いながら言うセレナの言葉に、ヘネラリーフェは妙に納得していた。
（あれで結構、情に厚いのよね、ロイエンタールって）
内心でクスリと笑みを零す。
とにもかくにも、二人は明日会うことを約束し、別れたのであった。
夜、ロイエンタールが帰宅すると、ムスっとした表情のヘネラリーフェが階段に座ったまま出迎えてくれた。
「そ、そんな所に座り込んでどうした？」
「いつまで待っても帰ってこないから、こんな所で待つ羽目になったんじゃない」
「すまん……急に会議が入って、書類が溜まってしまったんだ」
「夕食は？」
「食べてきた」
「そう……」
だったら、さっさと着替えなさい。
ヘネラリーフェはそう言うと、ロイエンタールの背中を押して階上の私室へと向かった。
「彼女に……セレナに何か言われたか？」
着替えを手伝ってくれるヘネラリーフェに、ロイエンタールが問う。
「色々お話したわ」
どうして、従姉妹がいるって話してくれなかったの？
「話す必要がないと思ったからだ」
しかも、母方の親族など、紹介しようとする気持ちすら持ち合わせられなかった。
「でも、まだ援助しているって……」
「浮き世の義理だ」
「ふーんだ、無理しちゃって」
結局、自分を慈しんでくれた伯母と従姉妹が大切なんじゃない。
ヘネラリーフェの言葉に、ロイエンタールは気まずい表情をした。
「明日、マールバッハ家に来いだって」
「セレナがそう言ったのか？」
「うん、お母様もロイエンタールの顔を見たがっているからって」
「それに乗ったのか、お前は？」
「だって、フェザーンに来てから一度も会ってないんでしょ？」
そもそも、それ以前のオーディンにあった時から、もっと正確に言えば、士官学校に入ってから、会っていないと聞いた。
「それに、私のこともちゃんと紹介してほしいし……」
「リーフェ……」
やはり、社交覧に書かれていた内容が気になるのか？
「どうせ私は捕虜上がりの娼婦ですよ〜〜だ」
ロイエンタールにガウンを羽織らせると、ヘネラリーフェはアッカンベーをした。
「馬鹿野郎！！」
ロイエンタールがヘネラリーフェを背後からきつく抱き締めた。
「誰が娼婦だと言うんだ……」
俺を闇の中から救い出してくれた女神なのに……
闇の中の俺を、孤高の光で包んでくれる『月』なのに……
「だって、未だにみんなに言われるし……」
「誰がそういう馬鹿なことをぬかすんだ？」
「さすがに上級大将以上の人には、あからさまに言う人はいないけど、それ以下の人には……」
「例えば？」
「バイエルライン提督とか……」
（あの青二才め）
ハイネセンでヘネラリーフェを撃っておいて、まだそんな莫迦なことをぬかしているのか。
ロイエンタールは怒りに震えるあまり、ヘネラリーフェをより強く抱き締めていた。
「ロイエンタール、苦しい……」
ハッとして、ロイエンタールが腕の力を緩める。
「明日、行ってくれるわよね？」
ヘネラリーフェがロイエンタールの金銀妖瞳を振り仰ぐようにして覗き込んでくる。
少し憂いを秘めたその瞳に向かって、Nineとはさすがに言えなかった。
その夜、ロイエンタールはいつもより激しくヘネラリーフェを抱いた。
未だにヘネラリーフェを捕虜上がりの娼婦だと罵る人間への無言の抗議が行為に現れてしまったのだ。
（ちくしょう……リーフェのことなど、何も知らないくせに……）
ロイエンタールの逞しい体躯の下で、琥珀色の髪を振り乱しながら嬌声を上げるヘネラリーフェの白い肢体を、彼は強く抱き締め、そして責め続けたのであった。
翌朝、ロイエンタールは仕事を休む旨をベルゲングリューンに伝えるべく、書斎のヴィジホンの前に立った。
僅か１回のコールでベルゲングリューンが出る。（おさすがである）
「悪いが、今日一日休みを取る」
『あの……フロイライン・ブラウシュタットと何かおありになったのですか？』
（くそう……ベルゲングリューンがこれだとすると、元帥府中に新聞のことが知れ渡っているな）
内心で舌打ちしつつも、ロイエンタールは落ち着いた声音で言った。
「あの内容はデタラメだ」
そもそも、従姉妹相手に、結婚などとは馬鹿馬鹿しい。
『従姉妹！？』
「そうだ、あの女は、母方の従姉妹だ」
これで誤解は解けただろう？
「どうせミッターマイヤー他の提督達が執務室に真相究明に乗り込むだろうから、お前上手く説明しておいてくれ」
『しょ、小官がですかぁ？』
「お前以外に、上手く説明できる奴などいないだろ？」
ヴィジホン越しでも迫力のあるロイエンタールの眼差しに、ベルゲングリューンは負けたのであった。
その日は、ロイエンタールが危惧した通り、諸提督達が執務室に現れ、昨日の新聞の件についてしつこく探求していったらしい。
ベルゲングリューンは目の回る思いで対応したが、その甲斐あってか、ロイエンタールの『結婚』騒ぎは、軍内部では終息の一途を辿ったのである。
「……フェ、リーフェ」
「う…ん……」
「起きろ、朝だぞ」
「もうちょっと〜〜」
寝返りを打ちながら寝ぼけ眼で哀願するヘネラリーフェが可愛くて、ロイエンタールは思わず上掛けごとヘネラリーフェの華奢な肢体を抱き締めていた。
「今日はマールバッハ家に行くんだろ？」
お前が言い出したことなんだぞ……
言いながら上掛けを剥がすと、朱い情痕の残る白い裸体が露わになった。
眩しい朝の光の中で見るその情痕は、咲き誇る花弁のようにも見えて、ロイエンタールの身体を欲情が駆け抜けた。
乱れた髪がまとわりつく無防備に晒された白い背中に口付けを落とす。
そこで漸くヘネラリーフェが目を開けた。
「まだ眠〜い」
おまけに、躰中痛い。
ヘネラリーフェは起き上がろうとして、だが躰中に走った鈍痛の為に、再びベッドに沈没した。
「もう止めてって散々お願いしたのに」
青緑色の瞳が恨めしげな光を湛える。
「悪かった」
昨夜は自制が効かず、ヘネラリーフェが泣いて許しを請うのに、その言葉を可憐な口唇を塞ぐことで無視し、何度も喘がせ、達かせ、そして気を失うまで責めたのだ。
「本当に悪いと思っているの？」
どう責任取ってくれるのよ。
「そうだな、これではどうだ？」
言うなり、ロイエンタールはヘネラリーフェの細い肢体を抱き締め、頤に手を掛けて貌を上向かせると、可憐に色付く薄紅色の口唇に、深々と口付けた。
「ん……」
零れ落ちるヘネラリーフェの吐息と、仰け反る躰に、ロイエンタールの官能に火が灯る。
彼は、冷たい舌を彼女の甘く薫る口内に差し入れ、息も絶え絶えになるほど、ヘネラリーフェの口唇を貪ったのであった。
背中に回ったヘネラリーフェの手が力を無くしてシーツの上に滑り落ちる。
思わず、感情に任せてロイエンタールはヘネラリーフェの肢体をベッドの上に組み敷いていた。
「ちょっ、止めっ」
文句を言おうとする口唇を再び塞ぐ。
ヘネラリーフェは、ロイエンタールの背中を拳骨でポカスカと殴った。
「今日はお出掛けするんでしょ？」
「お前がなかなか起きないからだ」
「昨夜あれだけ責められれば、躰が言うこと聞かないのもしょうがないでしょうが」
「だから詫びをしてやったじゃないか」
（よく言うわ……欲情してたくせに……）
「とにかく、お楽しみはまた今夜」
「その言葉、忘れるな」
（うわ……早まったかも）
ヘネラリーフェは内心で思いながらも、漸くベッドの上に起き上がった。
「はぁ〜〜 怠い」
「つべこべ言わずに、さっさとシャワーを浴びてこい」
もっとも、自分で出来ないのなら、俺が手伝ってやるが？
「いい、遠慮する……」
そう言うと、ヘネラリーフェはそそくさとバスルームに消えたのであった。
「可愛い奴め」
本当に、からかい甲斐のある奴だ。
クスクス笑いながら、ロイエンタールはヘネラリーフェの後を追ってバスルームへと入って行った。
「エッチー！！！」
と、叫ぶ声は、すぐに掻き消された。
バスルーム内で、もう一戦と相成ったのか、大人しくロイエンタールに躰を洗ってもらっているのかはわからないが、二人がバスルームから出てきたのは小一時間経った頃だった。（いや、きっとこの二人のことだから、もう一戦したあと、ヘネラリーフェがロイエンタールに躰と髪を洗ってもらっているに違いない）
故に、ヘネラリーフェは完全に湯あたりを起こしている。
ロイエンタールに横抱きにされたヘネラリーフェは、そっとベッドに降ろされる気配に、長い睫を震わせながらうっすらと目を開いた。
「もう……貴方って滅茶苦茶ね」
「お前を見ていると、どうしても自分が抑えきれない」
「色欲魔神」
「ふん、なんとでも」
お前だって、気持ち良いから、嫌だと言いながらも応じているんだろ？
ロイエンタールの言葉に、ヘネラリーフェは頬を赤らめた。
「ん？ どうなんだ？」
気持ち良くないなら、もう手は出さないが……
「意地悪……」
「なんだ？」
「意地悪って言ったの」
「どこが？」
黙り込んだヘネラリーフェが、数瞬後ポツリと囁いた。
「……わよ……」
「？」
「気持ち良かったわよ！！」
言うなり、ヘネラリーフェは上掛けを頭から被ってしまった。
ロイエンタールの忍び笑いが、上掛けの中のヘネラリーフェの背中に突きささる。
結局、お出掛けは午後からということになり、ロイエンタールはバスローブを脱ぎ捨ててヘネラリーフェの隣に滑り込み、裸の二人は仲良く二度寝と相成ったのであった。
二度寝から起き出したヘネラリーフェは、ドレッサーの前に立った途端、悲鳴を上げた。
「きゃぁ〜〜 何よ、これ〜〜！？」
耳元、頸筋、肩から腕、脇の下、背中、腹部、脇腹、下腹部、円やかな臀部、大腿の内側と外側、脹ら脛、足の甲……
正に躰中至る所、付けられる所には全てキスマークが付けられていた。
今だベッドの住人であるロイエンタールを叩き起こす。
「ロ〜イ〜エ〜ン〜タ〜ル〜」
「ん、なんだ？」
目覚めたロイエンタールは、涼しい声で応じる。
「なんなのよ、これは！！」
「何って、キスマークだろ？」
「何でこんなに付いているのよ〜〜」
「それは、お前が誘惑するからだ」
「私だけの所為じゃないでしょうがぁ」
言葉には、思わず泣きが入る。
「とにかく、何時までも裸でいずに着替えたらどうだ？」
「何に着替えろって言うのよ！！」
頸も足も見られないような格好だなんて……
「そうだな、ちょっと待っていろ」
考え込みながら、ロイエンタールがドレッシングルームへと入る。
「これなら大丈夫だろ？」
ロイエンタールが出してきた衣装には、まだブランド名の入ったタグが付いていた。つまり、新品なのである。
「いつの間に……」
「こんなこともあろうかと思ってな」
手渡された服は、頸元と手首、後ろのリボンにレースをあしらった、フルレングスのバッスルスタイルのローブモンタントであった。
深まり行く秋に相応しく、色は濃紺で、レース部分は白だ。
「手際の良いことで……」
ヘネラリーフェの溜息に、ロイエンタールはクスリと笑った。
「濡れたまま寝むってしまった割に、サラサラだな」
着替え終わったヘネラリーフェの琥珀色の髪を指に絡め、更に口付けを落としながらロイエンタールが囁く。
「結構お得な髪質でしょ」
髪に触れながら、ヘネラリーフェがウインクしながら答える。
先程までのやりとりが嘘のような仲むつまじい二人の姿がそこにはあった。（いや、先程までのやりとりもイチャついていると言えなくもないのだが）
ともあれ、二人は軽食を摂ると、マールバッハ家へと向かったのであった。
マールバッハ家では、ロイエンタールの従姉妹であるセルマと、その母親が出迎えてくれた。
「まあまあ、オスカー」
応接間に通された途端、ロイエンタールの伯母が彼に抱き付いてくる。
「久しぶりね、もっと良く顔を見せて」
すっかり大きくなっちゃって……
「子供扱いはよして下さい、伯母上」
ロイエンタールは、だが嫌そうな顔はせず、苦笑を浮かべている。
「あら、私の中のオスカーはいつまでも小さいままよ」
そう言ってロイエンタールの頬に口付けると、隣にいたセルマが堪えきれずに忍び笑いを零した。
娘の忍び笑いを聞いた所で、彼女は漸くロイエンタールの隣に寄り添うヘネラリーフェに気付いたようである。
「まあ、こちらが例のお嬢さんね」
「あ、あの初めまして、私は……」
自己紹介をしようと口を開きかけた所で、ロイエンタールがその声を遮るようにして喋り出した。
「今日は、伯母上に彼女を紹介する為に参りました」
私の一番大切な女性……
「ヘネラリーフェ・セレニオン・フォン＝ブラウシュタット嬢です」
ロイエンタールに背中を押され、ヘネラリーフェは一歩前に出ると、ドレスのスカート部分を撮んで頭を下げた。
「宜しくお願い致します」
「まあ、とってもお綺麗な方ね」
「お母様、彼女は綺麗なだけでなくて、とても知的で勇敢な女性なのよ」
今現在、同盟軍中将であり、外周艦隊の総司令官なの。
「かのヤン・ウェンリー元帥の秘蔵っ子なんですって」
「まあ、それは素晴らしいわ」
その若さで中将位にあることも、艦隊総司令官であることも、何よりあのヤン・ウェンリーに可愛がられているなんて。
「世間では色々と言われているようだけど、でも貴方が選んだ人だけのことはあるわね、オスカー」
伯母の手が、ヘネラリーフェの頬に伸びる。
「オスカーを宜しくお願いしますね」
優しく頬に口付けられて、ヘネラリーフェは『あっ』と思った。
（お義母さんの優しさに似ている）
ロイエンタールが懐く筈だ。この人は、母親の暖かさを持っている。
「私は所用でちょっと出掛けなくてはならないけど、今夜は一緒に夕食を摂りましょう」
そう言い残して、伯母は応接間から消えて行った。
「慌ただしくてご免なさいね」
セルマが笑いながら言う。
「マールバッハ家を継いだのは、伯母上か？」
「ええ、そうよ。うちには結局男子が産まれなかったから、母に婿を取って家を継がせたの」
「じゃあ、お母様は女伯爵様なんですね」
ヘネラリーフェの言葉に、セルマは笑い出した。
「それを言うなら、貴女だって女侯爵閣下じゃないの」
ね、ブラウシュタット侯爵様。
ウインクされて、ヘネラリーフェは黙り込んだ。
家を継ぐ気はない。そもそも、その家だって、レオンの代で費えたも同然だ。
「あら、ブラウシュタット家に限って、その理由は通らないでしょ」
意味ありげなセルマの言葉に、ヘネラリーフェは益々黙り込んだ。
ロイエンタールは、それ以上に訳がわからないという表情をしている。
「オスカーには話していないのね」
「…………」
「貴方達って、ホント良く似ているわ」
肝心なことを、相手に何一つ知らせていない。
「私という従姉妹がいることも然り……」
ロイエンタールが気まずい表情をした。
「先日オペラ座で会った時、言い忘れたんだけど」
「何だ？」
「貴方、毎日彼女に『愛してる』って言ってあげてる？」
（ブハっ）
（ゲホっ）
ロイエンタールとヘネラリーフェは、同時に紅茶を吐き出しそうになった。
「な、何を莫迦なことを・・・」
珍しく、ロイエンタールは他人の前で狼狽えた。
「あらぁ、駄目よ」
うちの旦那なんて、出勤前と帰宅後の二度は必ず言ってくれるわよ。
艶やかなブルネットの緩やかに流れる巻き毛と、空色の瞳を持つ美貌の女性はコロコロ笑いながら事も無げに言ったが、ロイエンタールの表情は変わった。
「旦那だと〜〜！？」
お前、結婚したのか？
「ごめ〜ん、この間話そうと思ったんだけど、言いそびれちゃって」
ペロリとピンクの舌を出したセルマが、だが悪びれずにそう言う。
「フェザーンに来てから結婚したの」
どうもマールバッハ家は男子に恵まれない傾向にあるようで……
「私に兄弟は生まれなかった」
だから、入り婿を取ることにしたの。
相手は、フェザーン屈指の財閥の御曹司。だから、何度も言っているように、もうロイエンタール家の援助はいらないのよ。
「いずれ、私がこの家を継ぐことになるわ」
それにしても……
「相変わらず不器用なのね、オスカーは」
ファーストネームで親しげに呼ばれ、ロイエンタールは憮然とした。
「言葉にしないと、伝わらないこともあるのよ」
何も言わなくても、相手もわかってくれていると思い込んでいたとしても、それは言い訳にしかならない。
きっと寂しい想いをしているわ。
優雅な指先でティーカップの縁をツツっと辿りながら、セルマは花蕾のような口唇からクスリと忍び笑いを零した。
「貴方のことだから、きっと毎日忙しくて、彼女と会話なんて殆どないんでしょ？」
そこにその性格である。
「寂しがっているわよ、彼女……ね、そうでしょ？」
いきなり話しを振られて、ヘネラリーフェはどう返答しようか暫し迷った。
「あ、でも、その……抱いてくれる時にはいつも『愛してる』って言ってくれますけど……」
赤面しながらヘネラリーフェが言うと、セルマはNineと言い放った。
「素面の時に言わずして、どうするのよ」
ホント、まどろっこしいカップルね！！
セルマがドンっとテーブルを叩くと、カップが飛び上がった。
「ちゃんと、言葉にして言ってあげなさい」
そうすることで、自分も幸福になるから……
結局、伯母に押し切られるままに夕食を馳走になり、二人がマールバッハ家を辞したのは夜の１０時を回ってからであった。
車に乗ると、ヘネラリーフェが話し出した。
「なんだか、パワフルな親子だったわね」
「ああ、昔からそうだった、あの人達は」
だが、伯母と従姉妹に可愛がられた記憶は、懐かしくて暖かい。
「良かった、ロイエンタールにもちゃんと『お母さん』と『お姉さん』がいてくれて」
ヘネラリーフェが、ロイエンタールの身体に華奢な身を凭せ掛けてくる。
その細い肩を抱き寄せながら、ロイエンタールは言った。
「愛してる、リーフェ……」
「ロイ？」
「愛してる……」
ヘネラリーフェの躰を正面から抱き締めると、ロイエンタールは彼女の耳元に熱く囁き掛けた。
「愛してる……俺にはお前だけだ……」
お前の為なら、命さえ掛けられる。
お前をわかろうとしない奴らの中傷誹謗から、お前を守って見せる。
お前を傷付けることはしない。
「お前がいなくなったら、俺も生きてはいない」
そう言って強く抱き締めると、今度は彼女の頤に手を掛け上向かせ、可憐な口唇にそっと口付けた。
啄むだけのキス……それがやがて熱を帯び、激しさを増す。
舌を絡め、相手の吐息さえも貪る深い深いキス……
口唇が離れた後、ロイエンタールはもう一度、ヘネラリーフェをきつく抱き締めた。
「愛している……」
「私も……私も愛しているわ、オスカー」
私には貴方しかいない。
貴方の愛を失ったら、私は生きていけない。
貴方は私が守る。
「烏合の衆が何を言おうと私は傷付かない」
だから、心配しないで……
「貴方と一緒なら、耐えられる」
夜の街を疾走する車の中で、二人はきつくきつく抱き合い、愛を囁きあったのだった。
Fin
結局、何が書きたかったのかわからない作品になってしまいました(^^ゞ
タイトルに偽りありの創作ですね、これでは……
オマケに、随分と長くなっちゃったし。
要するに、言葉にしないと、相手には通じないのよってことを書きたかった訳です。
が！！ 何やら、イチャついている二人の方が目に付く作品になってしまいました。あははのは〜〜(#^.^#)
久々に裏作品でも書いた方が身の為に良いのかも……
でも、今回のメインは、絶対絶対「ロイエンタールの親戚」です（笑）
ただ、従姉妹の方には名前を付けたのですが、伯母さんの方が名無しだったので、ちょっと書きにくかったです。失敗失敗（えへ）
と、バイエルラインが悪者……バイエルファンの皆様、ご免なさい。
でも、彼、あと一度くらいは悪者で出てきそうです……(^^ゞ
作中後半の「ブラウシュタット家が云々」というお話は、また別の機会に。
ネタはあるんですが、プロットが纏まっていないので。
もしかすると、本の方に入れるかもしれません。
ネットしか見ていない方には、申し訳ないm(__)m
さぁ〜〜て、次はロイのお誕生日作品だ〜♪
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