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水の吐息
| 真っ青な秋晴れの空が、瞬時に暗い雲に覆われ始める。 風が強くなり、水の匂いが鼻孔を擽った。 「急がなくちゃ」 慌てて立ち上がると同時に、一層強く風が吹き付け、そして静かに雨が降り出す。 雨は嫌いだ。 古傷が疼くからというのもあるが、それより何より、一人で聞く雨の音が嫌いなのだ。霧雨のように静かに降る細い雨は尚更嫌い。 ただ寂しくて、人恋しさが募るから。 でも今は・・・ 一、霧雨 「リーフェは？」 読んでいた新聞から顔を上げたロイエンタールが急に思い付いたように、空になったティーカップに紅茶を注ぎなおしに来た執事に問うた。 「それが、先程お庭にお出になったきり、まだお戻りにならなくて」 困惑したような執事の言葉にロイエンタールが居間の布張りのアンティークのソファの上から背後に広がる庭を振り返ると、先程まで晴れていた秋の高い青空が嘘のように薄暗く曇っていた。 「一雨きそうだな」 「はい」 ヘネラリーフェは雨が苦手だ。それを思い、執事も困惑しているのだろう。 （迎えに出るべきか？） だが、外出しているのを迎えに出るのならともかく、自宅の庭にいる人間を迎えに行くのも妙な話だ。 そもそも、ロイエンタール家の庭は広大すぎて、迎えに出たとしてもすれ違う確率の方が遙かに高いのである。 そうこうする間に、どんより曇った空から霧のように無数の細かい水滴が静かな雨音を道連れに落ち始めた。 辺りの景色はぼんやりとし、秋草や芝生もたちまち露が宿ったかのように濡れ始める。 ロイエンタールがソファから立ち上がりながら執事にバスタオルの用意をしておくように言い付けたところで、小さな悲鳴と共に華奢な躰が居間のテラスから直接ロイエンタールの腕の中に飛び込んできた。 細い腕一杯に、コスモスやら桔梗や竜胆などの秋の花々が抱えられている。 「それを摘みに行っていたのか？」 タオルでしっとりと濡れた琥珀色の髪を撫でるように拭ってやりながら、半ば呆れたような口調でヘネラリーフェに問うと、彼女の可憐に色付く口唇が花が綻んだような笑みを湛えた。 「だって、折角綺麗に咲いているんですもの」 だから、ロイエンタールにも見せたかったの。 「それに、あんなに晴れていたから、まさか雨が降るなんて思わなかったのよ」 確かに、それはロイエンタールも同意見だ。 なんにせよ、シャワーを浴びるほどではないものの、着替えは必要だろうということで、花を両手一杯に抱えたまま、ヘネラリーフェはロイエンタールの腕に捕らえられ、私室へと引きずられて行ったのであった。 着替え終わったヘネラリーフェが私室の寝室のドアからそっと居間を覗くと、ロイエンタールは薄暗い部屋の中でも外光の所為で唯一仄かながらも明るい窓辺に鎮座している革製のリクライニングチェアに座って雨足の強くなってきた窓外をボンヤリ眺めていた。 先程ヘネラリーフェが摘んできた花束は、ロイエンタールの横にある大理石で出来たテーブルの上のガラスの花瓶に生けてある。 暫く息を殺して、桔梗やコスモスや竜胆達と、そして外の雨景色と同化してしまいそうな程に静かな佇まいのロイエンタールの姿を見つめていたが、程なくして彼はヘネラリーフェの視線に気付いたようで、ゆっくりと金銀妖瞳で彼女の方を振り返った。 「着替え終わったのか？」 「うん」 ヘネラリーフェが、バスタオルを頭から被ったままでロイエンタールに近付く。 と、更に近くに来いと言うかのように、彼は手招きした。 誘われるがままに、ロイエンタールの足下の毛足の長い絨毯の上に直接腰を降ろすと、まだ濡れていると言わんばかりに、タオルに添えられた彼の手が琥珀の髪を拭い始める。 それは拭うと言うよりはむしろ撫でるといった感のもので、ヘネラリーフェはタオル越しに感じる大きな手の優しい温もりにうっとりと目を閉じた。 「乾いたな」 低い呟きと共に、ロイエンタールの手がヘネラリーフェの髪から離れていこうとする。 「やめちゃ嫌、もっとして……」 強請るように。彼の膝に頭をコテンと乗せた。 瞬時にヘネラリーフェの意思を理解したロイエンタールは喉の奥でククっと笑うと、ヘネラリーフェの頭部を覆っていたタオルを取り去り、直接琥珀色の髪に触れてきた。 時に指先で梳くように、時に大きな掌で撫でるように、緩やかに流れる柔らかな髪をゆっくりと弄んでやる。 暫くそうしているうちに、膝の上のヘネラリーフェの頭部が重みを増した。 それが気怠そうな仕草にも見え、ロイエンタールが心配そうに声を掛けた。 「まだ雨が苦手なのだな。気分が悪いのなら横になるか？」 「大丈夫。それに、今は雨が嫌いじゃないし」 予想外の返事にロイエンタールが一瞬言葉を失う。 「一人で聞く雨音は寂しいから嫌い」 確かに傷痕は疼くし、体調も湿気の所為で思わしくない。でも、今は二人だから…… 「二人で聞く雨音は優しいから、体調なんて問題にならないくらい好きよ」 眠そうな口調で言葉を綴るヘネラリーフェへの愛しさが溢れ出し、ロイエンタールは殆ど力を抜いた状態で彼の膝に寄りかかっているヘネラリーフェの躰を引き上げ、強く抱き締めながら可憐に色付く薄紅色の口唇に自らのそれを重ねた。 うっとりとしたような甘い吐息がヘネラリーフェの口元から微かに零れる。 雨模様の所為なのか、灯りのない灰色染められた空気を微かに振るわせるそれは、まるで水の吐息のようだった。 二、雨音 急に歩きたくなり、元帥府からの帰りに車から降りた途端、空を灰色の暗い雲が覆い出した。 「雨か……」 水の匂いのする一陣の風が吹きつけ、と同時に霧のように無数の細かい水滴が空から落ち始める。 既にロイエンタールのいる場所は私邸の長い塀の前で、門までの距離も幾ばくもない。 「霧雨でもあるし、急ぐこともあるまい」 一人呟き、ゆっくりと歩き始めたロイエンタールの耳に、何かが泣いているような声が微かに届いた。 「？」 辺りを見渡しても、霧雨の所為で視界がぼやけて定かではない。 「気の所為か？」 気を取り直すように再び歩き出そうとした所に、今度はさっきよりもハッキリと明らかに猫の鳴き声とわかる声が耳に入ってきた。 雨にけぶる視界に目を凝らすと、道路の端に雨で濡れてすっかり形を無くしかけた段ボールがひとつポツンと置かれている。 中を見やると、雨でぐっしょりと濡れた子猫が寒さにブルブルと震えている姿が目に入った。 「なんだ、猫か」 生き物に対する情愛など持ち合わせてはいないとばかりに興味なさそうに端的に呟き、そのまま行き過ぎようとするロイエンタールを呼び止めようとするかのように子猫が鳴く。 「ミャア〜」 それでも、以前の彼ならそのまま冷酷に子猫を置き去りにして帰宅していたことだろう。だが、今の彼に、それは出来なかった。 子猫の寂しげな何かを訴えるような鳴き声と瞳が、最愛の人を思い出させたから…… （一人で聞く雨の音は嫌い。寂しくて、人恋しくなるから……） 偶然か必然か、子猫の毛色は最愛の人の髪と同じ琥珀色、そして人なつっこくロイエンタールを見上げてくる丸い瞳は、青緑色の宝珠だった。 「お前も独りぼっちか？」 内心で苦笑しながら子猫に対して言うと、ロイエンタールは毛が濡れた所為ですっかり痩せ細って見える子猫をそっと抱き上げ、自らの羽織るコートの合わせ目から中へと招き入れた。
今、ロイエンタールの傍にはヘネラリーフェはいない。 Fin ＊かいせつ＊ 超久々（^^;;）の新作は、秋雨に子猫ネタです。 2003/9/26 かくてる♪てぃすと 蒼乃拝 |
