日も暮れて、そろそろ退庁の時間となった時、ミッターマイヤーの執務室のドアが開いた。
「どうした、こんな時間に？」
　ヘネラリーフェがフェザーンに戻ってきてからというもの、退庁間際に顔を覗かせることなど滅多になくなってきていた（つまり、呑みに誘いに来なくなった）親友が珍しく姿を見せたことに、ミッターマイヤーは驚きながらもひとまず彼を室内へ通す。
「突然で済まぬが、今夜卿の家に泊めてくれぬか？」
「はぁ？」
　突然の言葉に、ミッターマイヤーは唖然とした。
　何も自分の家に泊まらなくとも、彼には立派な屋敷がある、しかも、そこには僅かな時間でさえも離れがたいと思っている最愛の愛人ヘネラリーフェがいるのだ。
「何かあったのか？」
　家で何かあったとして、だが泊まるならホテルでも良かろうに……いや、決してロイエンタールを泊めたくないわけではなく、彼の性格を把握しているミッターマイヤーとしての一般論なのだが。
　家にも帰ろうとせず、ホテルにも泊まらず、ミッターマイヤーの家に泊めてくれと言うロイエンタールの態度に、さすがに彼は心配になった。
「うちは構わないが、もし良かったら何があったのか教えてくれ」
　ミッターマイヤーの言葉に、ロイエンタールは少々躊躇いながらも口を開いた。
「リーフェと喧嘩した」
「・・・・・」
　ロイエンタールには悪いが、それなら尚更帰った方が良いのではないのだろうか？　だいたい、夫婦喧嘩は犬も喰わないと言うが、ロイエンタールとヘネラリーフェほどその言葉に相応しいカップルはいないだろう。
　と、思ったものの、ロイエンタールには彼なりの考えがあるのだろうと思い直し、ミッターマイヤーはヴィジホンでエヴァンゼリンに連絡を入れると、二人で連れ立って元帥府を出たのだった。

　ロイエンタールを居間に案内すると、ミッターマイヤーは酒の用意をしてくるからと一旦姿を消した。
「なあエヴァ、一体どういうことなのだろう？」
　居間から出てきたミッターマイヤーは、キッチンでつまみを作っている愛妻にそう問い掛けた。
　ロイエンタールよりは夫婦になって何年か経っている自分の方がまだ男と女のことに対して考えが及ぶと思っていた（尤もそう思うようになったのは、ロイエンタールがヘネラリーフェを得てからだが）のだが、今夜の彼の態度はわからないことだらけだ。
　だが、エヴァンゼリンはクスリと微笑んだ。
「ロイエンタール元帥は、フロイラインのことを本当に大切に思っていらっしゃるのね」
「？」
　エヴァンゼリンが言うには、こうだった。
　もし今夜ロイエンタールが帰宅しても、まだヘネラリーフェが怒っていたら……いや、既に怒りはなくても顔を合わせることで再び怒りが込み上げたら、また言い合いになるかもしれない。
　そうなってしまうと、今度こそヘネラリーフェは家を飛び出してしまうかもしれないのだ。
「きっと、行く当てのないフロイラインのことを思って、ご自分が家に帰らなければひとまず丸く収まると思っていらっしゃるんじゃないのかしら？」
　一晩おけば、ヘネラリーフェも落ち着くだろう。
「そうお考えになったんじゃないのかしら？」
「そんなもんかね」
　にしても、では何故ミッターマイヤー家なのだろう？　それこそホテルにでも泊まれば良いものを……
　ミッターマイヤーのこの疑問に対して、エヴァンゼリンは仰天するようなことを言った。
「独り寝はお寂しいのよ、きっと」
　ミッターマイヤーと呑むことで、気分を紛らわしたいに違いない。
（まさか、あいつに限って……笑）
　と一度は思ったものの、その後『なるほど』と妙に納得して、ミッターマイヤーは酒とグラスを持ってロイエンタールの待つ居間へと戻っていったのだった。

「帰ってこない……」
　私室のソファの上で足を抱えるようにしていたヘネラリーフェが呟いた。
　が、次の瞬間、今言ったことはなかったことにする！！　とでも言いたげに、頭をブンブンと振る。
「ふん、どうせ私は子供っぽいですよ〜〜〜だ」
　とは言うものの、同じ軍人として彼の忙しさも立場もわかるヘネラリーフェとしては、朝のことは自分も悪かったかなと、今更思えてしまう。
（帰ってきたら、謝ろう）
　そう決心したものの、いつまで待ってもロイエンタールが帰ってくる気配はない。
「どうしよう……怒ってどこか行っちゃったとか？」
　我が儘なヘネラリーフェに愛想を尽かして、誰か別の女性の所に行ってしまったとか……
　そんな不吉な考えがグルグルと頭の中で巡りだし、ヘネラリーフェはスクっと立ち上がると落ち着きなくウロウロと室内を行ったり来たり歩き始める。
「ええい！！　うじうじと、私らしくもない！！」
　気合いを入れるようにそう叫ぶと、ヘネラリーフェは手早く着替えて、夜の街へと飛び出していったのだった。

　ロイエンタールを探す為に最初に行ったのは、ミッターマイヤーさえも知らない彼の行きつけのバーだった。が、
「今夜はいらしていませんよ」
　と、敢えなく敗退。
　次に、フェザーン一の高級ホテルの最上階ラウンジへ行ってみたが、ここも空振り。
「と、なると……」
　あまり行きたくはないが、空振った二軒以外に思いつくのは高級士官クラブくらいなものだ。
　ヘネラリーフェは足取りも重く、士官クラブへと向かった。
　重厚な扉をそっと押すと、軋んだ音を立てて開き、その音に中にいる人々が戸口を見やった。その人々の視線が俄に厳しくなる。
　ヘネラリーフェの存在を目障りに思う帝国軍人は多い。士官クラブともなると、やはりそういう輩は多く（酒も入っているので、益々絡んでくるのだ）一度ロイエンタールと待ち合わせの為に一人で入ったことがあるのだが、その時散々な目に遭って以来（別に暴行されたとか、そういうことではなく、ただ言葉の暴力を受けたに過ぎないのだが）、彼女はここへは来たことがなかった。
　響き渡る自分への野次を聞き流しながら、戸口に佇んだまま店内をグルリと見渡す。が、ロイエンタールの姿はなかった。
　士官クラブに彼の姿がなかったことになんとなくホッとしながら店を後にしようとしたことろで、背後から声が掛けられる。
「ロイエンタール元帥をお捜しですか？」
　丁寧な口調な、だが甘くて冷たい声にヘネラリーフェは振り向いた。
「ファーレンハイト提督」
　一応は顔なじみになる氷の驍将には、以前ロイエンタールのことで世話になったこともあり（既刊本「Brivido Caldo」参照）、あからさまに無視出来ないのが厄介なところだ。
　彼のことだから、こうして自分がロイエンタールの姿を求めて彷徨っていることに、何やかやと探りを入れてくる可能性もある。
「先日はお世話になりました、では……」
　型通りの謝辞を述べて身を翻すと、背後から呆れたような苦笑と共に声が降ってきた。
「ロイエンタール元帥なら、恐らくミッターマイヤー元帥のお宅ですよ」
　一緒に帰宅する所を見かけましたから……
　てっきり、色々詮索されて絡まれるものだと思っていた所に、親切な情報提供。
　ただで親切にするということは考えられないと思っているヘネラリーフェの目の前に、案の定ファーレンハイトがグラスを差し出した。
「？」
「折角ですから、一杯如何ですか？」
　ファーレンハイトの手の中のグラスの中で、彼女の髪と同じ琥珀色の液体が揺れている。
　どういう種類の酒かはわからないが、呑まないと解放してもらえないと判断したヘネラリーフェは、グラスを受け取ると一気に喉に流し込んだ。
「ごちそうさまでした」
　唖然とするファーレンハイトと、その背後のソファに座を占めているミュラーやビテンフェルト他ロイエンタールの僚友達を尻目に、ヘネラリーフェは情報提供と酒への礼を兼ねて一礼し、足早にその場を立ち去った。
「おい、信じられるか！？」
「あの酒を一気に呑んで平然と歩いているぞ！！」
　ヘネラリーフェの立ち去った酒場は、俄に騒然とし始めた。
　無理もない。彼女が一気に呑み干した酒は、バカルディの１５１プルーフと呼ばれる度数７６℃のラム酒だったのだから。
　帝国の勇将達でさえ、一気呑みなどしたことがない酒を、今ひとつ馴染めない同盟の軍人、しかも女が平気な顔で飲み干していく……彼らにしてみれば、なんともしっくりこない、だが少しだけヘネラリーフェに親しみが湧いた夜であった。
　というより、唖然と見送る他なかったと言うのが、より正確な表現なのだろうが……
　ただ、度数９６℃のスピリタス（ウォッカ）がお気に入りなヘネラリーフェにしてみれば、７６℃は大したこともなかったのかもしれない。

　さて、騒然とする酒場を後にしたヘネラリーフェは、あれだけ強い酒が回っている様子を微塵も見せずに（回る以前に酒を呑んだうちに入っていない可能性もある）、通りに出て車を拾いミッターマイヤー家へと向かったのであった。

「・・・・・」
　無言で酒を呑むロイエンタールに、ミッターマイヤーは声を掛けられないまま、つられるように酒を胃に流し込むという作業に没頭していた。
　今なら、エヴァンゼリンの言ったことが納得できる。
　こうして僚友と呑んでいながらも、ロイエンタールの心は自宅にいるヘネラリーフェの所にあるのだ。
『独り寝はお寂しいのよ、きっと』
　エヴァンゼリンの言葉ではないが、本当に目の前にいるロイエンタールは寂しそうだった。
（卿はそれほどに彼女を愛しているのか）
　たったひとり、彼の存在を受け入れた至上の存在……ミッターマイヤーにとってのエヴァンゼリンもそういう存在だが、だが彼はロイエンタールがそういう存在を得ることが出来たことが、心底嬉しく、そして少し羨ましくも思えたのだった。
（しかし、そうなると尚更このままにはしておけないなぁ）
　明日自宅に帰って、そのとき事が再発せずに元の鞘に収まってくれれば良いが、そうなるとは言い切れない部分もあるのだ。
　その時、ミッターマイヤー邸に来客を告げるホームコンピューターの音が響き渡った。
「な、なんだ、あれは！？」
　ミッターマイヤーが慌てて立ち上がったのも無理はない。まるで子供の悪戯のように連打されているだろうインターホンが、けたたましく鳴り続けているのだ。
　が、それを耳にしたロイエンタールの顔に僅かに喜色が走ったことをミッターマイヤーは見逃さなかった。
「ウォルフお客様よ、ロイエンタール元帥に」
　クスクス笑いながら、エヴァンゼリンが居間に顔を覗かせる。と同時に、後ろからヘネラリーフェが駆け込んできた。
「リーフェ！？」
　ミッターマイヤーが叫ぶと、彼女は夜分に申し訳ないとでも言うようにペコリと頭を下げた。
　が、次の瞬間ロイエンタールに抱きついていく。
　ミッターマイヤーは唖然と立ちつくした。
「ロイエンタール〜〜〜」
「リーフェ……」
　ミッターマイヤー夫妻の眼前で、二人が互いをひしっと抱き締め合う。
「もうもう、私に愛想尽かして出ていっちゃったかと思ったじゃない」
　ヘネラリーフェが鳴き声でしゃくりあげながら言うのに、ロイエンタールは琥珀色の髪を撫でながら苦笑した。
「俺がお前を置いて何処へ行くというのだ？」
　ただ、今夜は少し離れていた方が無難だと思っただけだ。
「明日は、帰るつもりでいた」
　いや、本当は、ミッターマイヤーと呑みながらも、今すぐ帰りたいと考えていたのだ。
　やんちゃなお姫様の顔が見たくてしょうがなかった……
「ごめんね、我が儘言って」
「俺の方こそ、済まなかった」
　二人で謝り合って、口唇を重ね合いながら、再び強く抱き締めあう。
（やれやれ）
　目の前で繰り広げられるラブシーンに、ミッターマイヤーは溜息を吐いた。
　横では、エヴァンゼリンが微笑んでいる。
「君の言ったようになったね」
　でも、どうせイチャつくなら、家に帰ってやってほしいもんだ。そう漏らすと、彼女はクスっと笑いながら言った。
「そんなことを言いつつも、本当は貴方も嬉しいくせに」
　エヴァンゼリンの言葉にミッターマイヤーは少々バツの悪そうな表情をしながら、頭を掻いた。
　確かに、濃厚ラブシーンを目の前で繰り広げられるのには閉口するものの、エヴァンゼリンの言うように二人の仲が戻って嬉しかった。
　そして、もうひとつ思ったことがある。
「実は、あいつのリーフェへの想いが強すぎて、少し不安だったんだ」
　愛するがあまり、いつかヘネラリーフェを傷付けることがあるかもしれない……　憎みあっている頃から二人を見ているミッターマイヤーには、ロイエンタールのヘネラリーフェに対しての激情に不安を掻き立てられていたのだ。
「だけど、今夜あの二人を見ていて安心した」
　案外、巷に溢れるカップルと変わりがないと思えたのだ。
　それに、ロイエンタールの中で、確実に他人に対する思いやりの心が育ちつつあることもわかった。　
　喧嘩の最中にも冷静だったということが少々可愛げないが、だが彼が冷静だったからこそ、早く仲直りが出来たと言っても良いと思えるのだ。
　そんなことをミッターマイヤーとエヴァンゼリンが話している間も、二人の前ではラブシーンが繰り広げられている。
「お前達、イチャつくなら帰れよ」
　呆れたような、だが楽しそうな声が居間に響いた。