鬱蒼とした森の中、煌々と降り注ぐ青白い満月の光の下で満開の桜が風に揺れている。
雪のように降り注ぐ花弁と共に、何か微かな音がロイエンタールの耳に流れ込んだ。
「泣き声か？」
声のする方に足を向けると、あどけない少女が泣いている姿が二色の目に入る。
「迷子か？」
年齢にして三歳くらいだろう少女を見つけ、こんな夜更けにどうしてこんな少女が外に？と、戸惑う気持ちと同時に、このままにはしておけないという気持ちが湧き出す。
ロイエンタールの気配に、少女が彼の方を振り向いた。大きな青緑色の瞳に涙を一杯に湛えた姿を見れば、放っておけないという気持ちは益々高まる。
「こんな夜更けに、子供が何をしている？」
問い掛ける声音は、内心とは違い冷ややかで、少女は一瞬怯えたような貌をした。
「お家がわからないの」
怯えながらもハッキリと言う少女に、ロイエンタールは内心で感嘆した。こんなに幼いのに、案外しっかりしていると思ったのだ。
少女の姿を一通り上から下まで視線で辿り、更に感嘆の溜息を内心で吐いた。
緩く流れる琥珀色の柔らかそうな髪、涙を湛えた瞳は氷河の割れ目に見えるような透き通った青緑色、桜色の口唇に、白皙の肌、スッキリ通った鼻筋、弧を描く柳眉、美貌、そして幼いまでも全身から溢れる気品のようなもの。更に利発そうな少女の身なりは、夜着らしきシルクとレースのドレス。
明らかに平民ではなく、また、豪商の家の者とも思えない。恐らく貴族の娘だろうと、ロイエンタールは確信した。
惑星オーディンの首都からさほど遠からぬこの地は、あまり派手さはないものの趣味の良い貴族達の別荘地となっているので、多分その中の一軒が少女の家だろうと目星をつけ、ロイエンタールは少女を立て抱きに抱き上げた。
「心配しなくても良い。俺がちゃんと家まで連れて行ってやるから」
不安そうな表情ながらも、今はロイエンタールを頼る以外にないと悟ったのだろう。少女は、彼の着衣の肩あたりを小さな手でキュっと握りしめた。
「お兄ちゃま、私のお家わかるの？」
青緑色の瞳には既に涙はなく、不思議そうに首を傾げながら問い掛けてくる双眸が、真っ直ぐにロイエンタールの金銀妖瞳を射抜いてくる。
「ああ」
別荘地とは言っても、今の時期はこの地にはあまり人はいない。今人の気配がする屋敷となれば、恐らく周辺の中でも一際瀟洒な屋敷だろう。住人の人柄が屋敷に反映されているとすれば、貴族の中でも希有なまっとうな人間なのだろうなと、ロイエンタールは内心で考えて苦笑を漏らした。
うっそうとした森の中、風がザワザワと木々を揺らし、満開の桜から雪のような花弁が狂ったように舞い落ちてくる。
月光を浴びたそれが、怖いほどに美しくて、ロイエンタールは身震いした。
「灯りが見えてきた。あれだろう？ お前の家は」
森から出た先は、どうやら屋敷の裏手にあたる所だったらしい。瀟洒な屋敷のこちら側には、広く整備の行き届いた庭園が広がっていた。
「どうやら、まだお前が抜け出したことを知らないようだな」
屋敷内は、シンと静まりかえっている。誰も彼も寝入っていて、幼い少女がひとり抜け出したことに気付きもしないのだろう。
「どうして、こんな夜更けにお前のような子供が外に出て来たんだ？」
森を抜けて丘を降りながら問い掛けてみる。周囲には、森の中のものに勝るとも劣らないほどの桜が満開に花を付けて、ざわめきながら二人を見下ろしていた。
「だって、お月様がとっても綺麗だったんですもの」
満月の光の下で見る満開の桜と、雪のような桜吹雪はいかばかりの美しさだろう……そう考えると、幼子ながらもジッとしていられなくなったのである。
「で、迷ったのか？」
月と桜に惹かれて、挙げ句に迷子になったらしいことがわかり、ロイエンタールの声に呆れたような響きが加わった。
「うん」
コクンと頷くも、どうやら反省はしていないらしい。
「だって、本当に綺麗なんだもん」
無邪気な少女は、どうやら普通の子供のように闇に恐怖を抱かないらしい。ロイエンタールさえでも夜桜の禍々しさに怖れを抱いているというのに。
「俺は美しいとは思うが、少し怖い」
ロイエンタールは、誰に言うともなしに呟いた。
「怖い？」
「ああ、あまりに美しすぎて、魔性のものが潜んでいるような気がしてならないんだ」
キョトンとした表情の少女にロイエンタールが苦笑混じりに答える。尤も、怖れを抱きながらも夜桜を愛でに来たのも、彼自身の意思なのだが。
「さあ、着いた」
ロイエンタールの言葉の直後に、彼らは屋敷の裏門に到着した。
「まだ誰も気付いていないようだから、そっと帰れ」
「うん、ありがとう」
そう言い残して、ロイエンタールの腕から降ろされた少女は小走りに駆け出そうとしたが、だが突如方向転換して戻ってくる。
「なんだ？」
小さな手がロイエンタールの腕をギュッと掴んできた。
「あのね、もう一度会える？」
今夜みたいに月の綺麗な夜に、また会って欲しい……少女の言葉にロイエンタールは自分でもビックリするほどアッサリと答えた。
「ああ、良いぞ」
では、次の月の美しい晩に今夜と同じ場所で必ず会おう……そう言ってやると、少女の表情がパッと輝いた。
「そういえば、まだ名前も聞いていなかったな」
「・・・・・」
再び立て抱きに抱き上げて問い掛けると、少女の表情が微かに戸惑いを見せる。
恐らく身分柄、軽はずみに身元を明らかにしないように躾られているのだろう。それを悟ってしまえば、無理矢理聞き出すわけにはいかなくなる。
「そうだな、では咲耶姫と呼ぼうか」
「咲耶姫？」
「ああ、桜の下で出逢った桜の妖精のようだから」
咲耶姫……正式には木花咲耶姫。古来から桜の女神として名高い女性の名である。
「では咲耶姫、次の月の美しい夜に再び会えることを楽しみにしている」
そう言って、更に指切りまでして、二人は別れた。
それから十数日、再び月の美しい晩はやってきたが、だが約束の場所にロイエンタールは行けなかった。
春まだ浅い季節……ロイエンタールが実父を亡くす十数日前、彼が十一歳の頃の話である。
「うわぁ、凄い風」
激しく吹き付ける風に煽られる長い琥珀色の髪を手で押さえながら、ヘネラリーフェが天を見上げた。
同じく風に煽られる桜の樹から、狂ったように花弁が舞い落ちてくる。
「これじゃあ、早々に散っちゃいそうね」
今年はどうやら見頃が短そうだ。
「でも、桜って満開の時も綺麗だけど、散り際が一番綺麗よね」
何気に呟いたヘネラリーフェの言葉に、ロイエンタールは曖昧な返事を返したのみだった。
桜は確かに美しい。散り際の美しさは、特に目を見張るものがあると思う。だが、同時に魔性のようなものをも感じる。そして、禍々しささえ感じさせる桜の美しさに怖れさえ抱いてしまうのだ。
あれはまだ幼い頃のこと……桜の魔性に惹かれたかのように、満開の桜の下、ヒラヒラと舞い降りる桜の花弁の中で、母レオノラに一度だけ優しく微笑みかけられ抱きしめられたことがあった。
無論その後、いつものように激しく罵られ、そのときの普段以上の鬼のような形相とのギャップが忘れがたい。だが逆に母の温もりを感じることが出来たことが嬉しいと思ったことが、今のロイエンタールの記憶の中に確かにある。
だが、同時にレオノラにそうさせた桜の魔力に怖れを抱かずにはいられないのも事実だった。それ故、無条件に桜の美しさを愛でることが出来ないのかもしれない。
「どうかした？」
不意に、風に乱されたダークブラウンの前髪に細い指が絡みついてきた。
「いや、何でもない」
咄嗟にそう応えたものの、ヘネラリーフェに通用するはずがない。
案の定、彼女はそれ以上何かを言いつのるということはないものの、仕方ないなぁという体で微かに溜息を吐きつつ、ロイエンタールの髪をクシャっとかき乱した。
暫くの間、無言で桜吹雪の中を歩く。
気を取り直すように口を開いたのは、ロイエンタールの方だった。
「今夜あたり、夜桜でも見に来るか？」
幻想的な夜桜も見たいと、前々からヘネラリーフェが言っていたのを、彼は生返事ながらも、ちゃんと聞いていてくれたらしい。
「良いの？」
瞬間的に彼女の表情が笑顔満開になり、嬉しそうにロイエンタールの腕に抱きついてきたのだった。
その日は、満月の美しい夜だった。
「はぁ〜〜〜 やっぱり、夜桜って綺麗よねぇ」
うっとりとしたような口振りで呟くヘネラリーフェの姿に微笑ましさを感じながらも、だがロイエンタールの心中は些か落ち着かなかった。
美しすぎて怖い……こんなことを言ったら、ヘネラリーフェは笑うだろうか。
煌々と降り注ぐ青白い月光の下、雪のように降りしきる桜吹雪は壮絶に美しくて、それが妖しさと禍々しさを感じさせる。
ロイエンタールにはそれが怖くて仕方なかった。
暫く歩くと、池の畔に出る。月明かりに照らされて桜の樹が池の水面に映り、幻想的な美しさを醸し出していた。
「水面に映える、幻想二重奏ってところね」
風流なことを言うヘネラリーフェの華奢な躯を、咄嗟にロイエンタールが立て抱きに抱き上げる。
「きゃっ」
何をするんだと言わんばかりのヘネラリーフェの髪に、彼は自らの顔を埋めた。
柔らかくて甘やかに香る髪に、少し気持ちが落ち着いてくる。
「昼間から変よ、何かあったの？」
ロイエンタールの頭を抱き締めてやりながら、ヘネラリーフェが彼を気遣う。が、さすがに桜が怖いとは言えないロイエンタールであった。
暫く、大人が子供を抱くような形で抱き合っていた二人だったが、不意にヘネラリーフェを強い既視感が包み込んだ。
（あれ？）
前にも一度、月の美しい夜、桜の樹の下で誰かに抱き上げられたことがあったような気がしてくる。
（誰だっけ？）
父親ではない。確かに出撃が多くて滅多に一緒にはいられない実父ではあったが、それでも何度か桜を一緒に愛でたことがあり、そしてそれは鮮明に記憶の中にあるのだ。
故に、不意に包んだ既視感の中にある『誰か』は、父ではないと言い切る自信があった。
「どうした？」
いきなり黙り込んだヘネラリーフェに、今度はロイエンタールの方が気遣う言葉を掛けてくる。
ヘネラリーフェは素直に、今自分が思っていることを彼に伝えた。
「前にも、こんな風に夜桜の下で誰かに抱き上げられたような気がして」
ロイエンタールの表情が僅かに動く。が、ヘネラリーフェは気付かなかった。
「誰だったんだろう、あれは」
考えれば考えるほど、記憶は鮮明になっていく。桜と月光と、そして『誰か』に抱き上げられた記憶……だが、鮮明になる記憶とは裏腹に、自分を抱き上げてくれた人物の姿は霞がかかったようにハッキリしない。
「気の所為とか、いくつかの記憶が混ざっているということはないのか？」
ロイエンタールの言葉に、益々首を傾げつつ考え込むヘネラリーフェであった。
『咲耶姫』
あの寂しそうな横顔と抱き上げてくれた腕と胸の温もりと、夢の中で呼びかけてくる人の声には覚えがあった。そう、何よりも身近な温もりと声……
朧な影が、急速に鮮明になっていく。
「ロイエンタール！！」
叫びながら、ヘネラリーフェは跳ね起きた。
暫く呆然と隣で眠る人の端正な寝顔を見ていたが、意識がハッキリしてくるにつけ、『まさか』という気持ちが強く湧き出す。
「そんな……偶然にしても……」
だが、夢の中で自分を抱き上げていたのは、確かにロイエンタールだった。尤も、今の彼ではなく姿は少年だったから、あれがロイエンタールだと言い切る自信はない。だが、希有な二色の瞳は確かにロイエンタールと同じものだった。
あの時は闇の中だったことと、自身があまりに幼かったことで、あまり気に留めなかったが、今思えば、確かにあの少年は金銀妖瞳だったように思える。
こんな偶然は、恐らく全宇宙を探してもないだろう。身近に二色の瞳の人間が二人いるだなんて、考えられない。
不意にベッドサイドの灯りがともり、ヘネラリーフェは飛び上がった。
「び、びっくりした~~ 脅かさないでよ」
ベッドに横たわったまま彼女の琥珀色の髪に優美な指を絡みつかせてきたロイエンタールに苦情を零す。が、眠りから覚めた彼の顔を見ているうちに、ヘネラリーフェの記憶は益々鮮明になっていった。
「ねえ……私って、ロイエンタールに逢ったことがある？」
「・・・・・」
ロイエンタールは答えなかった。いや、答えられなかった。
ハッキリ言えば、ヘネラリーフェの言っていることは図星である。だが、どうして認められよう？ その少女を後に手込めにしたと……
「黙っているってことは、肯定ってこと？」
ロイエンタールの性格を熟知しているヘネラリーフェにしてみれば、黙りこくった彼の態度は否定ではないと断定できる。
彼女は、ロイエンタールの上に馬乗りになり、彼の身体を揺さぶりながら更に問い掛けた。
「怒らないから、ちゃんと答えてよ」
思い出しかけた記憶がモヤモヤとしたままというのは、精神衛生的によろしくない。
もし、あのとき自分を抱き上げてくれた少年がロイエンタールだったとすれば、自分は僅かな時間ながらも慕った相手に、後に手込めにされたことになる。
些か皮肉な展開ではあるが、だがもしそうなら、なんと運命的な出逢いだろうとも思う。
「ねえ……」
ヘネラリーフェの言葉を、ロイエンタールが指で遮った。そして……
「あの頃は、鞠のようだったな」
ヘネラリーフェが目を見開く。やはり、彼だったのだ。
「んま、鞠だなんて、酷いわね」
目を見開き動揺しながらも、だがヘネラリーフェはなんとか言葉を絞り出した。というより、些かズレた返答だとは思うものの、それ以外言葉が出てこなかったのだ。
ロイエンタールが身を起こし、ヘネラリーフェは彼の膝の上に抱き上げられる格好になる。
「今は丁度良い抱き心地だ」
こともなげに言うロイエンタールの態度に、ヘネラリーフェが深々と溜息を吐く。
恐らく、ロイエンタールの心中は悔恨の想いで一杯だろう。自分にしても、さすがに驚いている。が、怒れないのも事実だった。
「ねえ、ロイエンタールは、私と以前に出逢ったと、いつから気付いていたの？」
痛いところを突く質問に、ロイエンタールは今度こそ本気で黙り込んだ。その態度から、相当前から気付いていたということがわかる。
（やれやれ）
知らないのは自分ばかり……ヘネラリーフェは今度はロイエンタールにもわかるほどに深々と溜息を吐いた。
「もう、何とか言ってよ！！」
ふくれっ面のヘネラリーフェが可愛くて、ロイエンタールは思わず彼女の髪をクシャリとかき乱した。
「そうやって、すぐ誤魔化す〜〜〜」
ヘネラリーフェの苦情が耳を心地良く擽る。
あの桜吹雪の下での出逢いから既に二十数年……初々しくて可憐な一重桜が、華やかで艶やかな八重桜になった。
この夜、時を超えた故にそう思えてならない、ロイエンタールであった。
折角の桜シーズンなので、桜ネタで書いてみました。
幼い頃のリーフェと少年ロイの出逢い……ってなネタは、昨年の卒園スペサルでやったような設定ですが、前のネタを「なかったこと」（←ヤマトじゃあるまいし＝爆）にして、新しいネタをゾクゾク書くことが出来るのが、同人の良いところだと思っている蒼乃なので、その辺りを御理解頂けるとありがたいです。
基本的な設定（年齢とか、歴史とか）には、変化はありませんが、やはり季節ネタって捨てがたいですからね。そんなこんなで、つい書いてしまいました（^^;;
さて、内容についてですが、リーフェの父親は出撃中です。リーフェと使用人（きっと、乳母とかいるんですよ）だけで、別荘に来ているんでしょうね、きっと（焦）
でもって、ロイはまだ少し素直さが残っているっていう設定。
咲耶姫は、作中に桜の女神と書きましたが、実際こんな説明で良いのか、ちょっと不安な蒼乃です(^^ゞ
ってことで、昨年の卒園は六歳と十四歳だったけど、更に年齢低下の三歳と十一歳のロイ＆リーフェ、気に入っていただければ幸いです。
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