「う……ん…」
（痛い……耳が………）
　耳朶に感じる鋭い痛みに、ヘネラリーフェの意識が徐々に覚醒する。
（痛……い…何をしてるの？」
「やめてっ！！」
　痛みに耐えかねたかのように叫んで身を起こしたヘネラリーフェは、ロイエンタールの手の中で鋭い光を放つものを見て、青緑色の双眸を愕然と見開いた。
　咄嗟に耳元に指を持っていくと、今まではなかった硬質なものの感触。
「他人の躯に、何勝手なことしてるのよ！！」
　しかも、睡眠薬を含ませて眠らせるという最低卑劣な手段を使ってまでしてだ。
　おまけに、ふと気付けば、ヘネラリーフェはキングサイズのベッドの上でロイエンタールの膝の上に抱きかかえられている状態で。
　彼女は慌ててロイエンタールから離れ、ベッドの端へと待避した。
　そうした上で、ヘネラリーフェは耳元に指を伸ばし、ロイエンタールの手で施された"ピアス"を外そうとした。
　そう……彼の手にあったのは、銀の針だったのである。
　華奢な指がピアスのキャッチにかけられる。と、その瞬間、ヘネラリーフェの動きはロイエンタールの腕によって阻まれた。
「この期に及んで、まだ他人の意志を踏みにじるわけ？」
　手首を掴む彼の腕の力は尋常のものではなく、ヘネラリーフェの表情が少しだけ痛みに歪んだ。
　それだけではない。耳朶は、麻酔もなしに針で穴を開けられたとあって、ズキズキと鈍痛が波打っているのだ。
　ピアスを外したからといってこの痛みがなくなるわけではないが、彼女自身の意志をまるっきり無視した状態というのが頗る気に入らない。
　特にヘネラリーフェの性格から言っても、とことん逆らいたくなるのは必定だろう。
　だが、ロイエンタールの声は冷酷且つ冷淡なものであった。
「意志だと？　お前は俺の奴隷であり所有物」
　お前はまだ自分の立場がよくわかっていないようだな……
「人形に意志など必要ない」
　だから、俺の手でピアスを耳朶に施すことによって生じる痛みによって、その躯にわからせてやるのだ。
「お前が俺の"モノ"であるということをな」
　ヘネラリーフェの耳元に顔を近付けると、ロイエンタールは熱い息を吹きかけるように囁き、彼女の耳朶を軽く舐めた。
　ヘネラリーフェが、痛みと共に感じる熱くて冷たい彼の舌の感触に思わずビクリと首を竦める。
「少しは、自分の立場を理解できたか？」
　顎を掴んで己の方へ強引に向き直らせると、ロイエンタールは更に艶のある声で低く囁いた。

　不意にヘネラリーフェに横から手鏡が差し出され、咄嗟に受け取ったのを見てとったロイエンタールは同時に呟くように喋り始めた。
「それは俺の両親が、生まれてくる俺の為に用意したものらしい」
　清冽な輝きというよりは、禍々しさを秘めたようにも見えるブリリアント・ローズカットのブルーの石。
　素人目にも極上とわかるその煌めく石がどういう種類のものであるのか、ヘネラリーフェにはわからない。だが、おそらくサファイヤやブルートパーズの類ではないことは、その煌めきが証明していた。
　しかし、ロイエンタールの両親が、我が子の誕生を楽しみにしていたという事実と、その真摯な想いが込められた最高級品だろうそれが、今では彼を呪縛していることはわかる。
　だが次の瞬間、ヘネラリーフェの胸の中に理不尽な想いが急速に湧き出した。
　彼は、結局自らを捕らえるトラウマにヘネラリーフェをも巻き込もうとしているにすぎないと思えたのだ。
　巻き込むというのは、ちょっと意味が違うのかもしれない。
　だが、所有物として扱う女に、この世に生まれ落ちた瞬間から忌むべき存在とされてきたロイエンタールにとって唯一の親の愛情の証あるピアスを、ヘネラリーフェ本人の同意なしに身に付けさせるという行為が、彼の弱さと脆さを顕著に物語っているように思えてならないのだ。
　結局ヘネラリーフェは『捕虜とか所有物とか人形ってのはただのこじつけで、結局独りでいたくないだけなんじゃいの』と、そう結論付けた。
（まるで猫みたい）
　極上のロシアンブルーが、気まぐれにゴロゴロすり寄ってくるかと思えば、呼んでも知らぬ顔を決め込む……そんな風に思えて仕方ない。
　随分と身勝手な言い分であり、考え方だと思う。むかつく。腹が立ってしょうがない。一矢報いてやりたいと思うのも、だから道理だろう。
　ヘネラリーフェは、ピアスがまだ片耳にしか施されていないことを見て取ると、手鏡をベッドの上に放り出し、そして自らの躯をロイエンタールの腕の中に投げ出した。
「お、おい？」
　自分が彼女の躯を好き放題に扱う事には無頓着なくせに、相手にそうされると困惑する質らしい。要するに、ロイエンタールという男は、孤独で臆病な幼子のままなのだ。
「もう片方の耳にも付けてよ！！」
　乱暴に言い放つと、逞しい体躯に貌を埋める。
「俺に命令するな！！」
「うるさい！！　どうせ、いずれもう片方にも付ける気だったんでしょ！！」
　だったら、今やれば良いのだ。その方が手っ取り早い。
　元々ヘネラリーフェはピアスを付けていた。それが、たまたま戦闘で負傷してロイエンタールの捕虜になった際に、治療の支障になるからと外され、そのまま現在に至り、結果的に穴も塞がってしまった。
　だから、ロイエンタールがこんな強引なことをするまでもなく、遅かれ早かれ彼女は自分で再び耳朶に穴を開け、ピアスを付けていたことだろう。
　ただ、自分でやるとなると、ロイエンタールがしたように針を刺して開ける以外になく、まだ戦闘の負傷痕のせいで躯のあちこちが痛む彼女としては、今は極力痛い思いをしたくなかっただけなのだ。
　理不尽なのは、自分の意志で付けるのと、他人に勝手に付けられることの違いだろうか。
　一瞬、ロイエンタールを見上げる青緑色の双眸に怒りの焔が揺らめいたが、だがそれはすぐに消え失せた。
　されるがままになるのが嫌なら、自らでこの流れを変えてしまえば良いと思ったのだ。
　強引に眠らされ、知らぬ間に躯に針を通されるのは、どう考えても人道から外れている。だが、それを自らの意志でということにしてしまえば……
　ロイエンタールは戸惑うだろう。そして、その時点でこれはヘネラリーフェの意思へと変化するのだ。
　そして、そう決めたのなら決めたで、痛い思いはサッサと終わらせたい。
「ただし、"慌てず急いで正確に"ね！！」
　と、当然、釘を刺すことは忘れない。
　痛いのは嫌だ。ただでさえ、既にピアスを施された片耳の耳朶から伝わる鈍痛と躯の不調が、痛みを恐怖にすり替えているのだから。
　耳朶に針の切っ先の感触……結果的にヘネラリーフェの言葉に従った形で、ロイエンタールが銀色に輝く針で耳朶を一気に貫いた。
"プツッ"
　耳朶を針が貫く音がリアルに耳に入り、ヘネラリーフェは苦鳴を漏らさぬように口唇を噛み締めながら、一瞬ギュッとロイエンタールの胸にしがみ付いた。
　冷たくて優美な指が、すぅっとヘネラリーフェの耳朶を撫でる。
「消毒、忘れるなよ」
　言いながら、先ほどヘネラリーフェが放り出した手鏡を再び彼女の手に握らせる。
　白皙の肌に施されたブルーの宝珠。
「それは、ブルーダイアだ」
　これは、ロイエンタールの両親が、生まれてくる我が子の為に深い愛情を込めて用意したものだろう。
「皮肉なものだな、ブルーダイアなぞ昔からあまり良い言い伝えがないのにな」
　確かに、大粒のブルーダイアともなると、呪いに関した伝説が多く残されているのも事実だ。
　だた、それでもこの究極のブルーともいえるブルーダイアのピアスからは、あまり禍々しさは感じられない。
　本当に、彼の両親は彼の誕生を心待ちにしていたのだろうと思う。
（そうか……）
　ロイエンタールは、自分が少なくとも生まれ落ちるその瞬間までは、愛されていたのだと思いこみたいだけなのかもしれない。
　他人に、いや、ヘネラリーフェに付けさせることで、何かを得たいのだろうか。でも、何故『私に？』と思わずにはいられなかった。
　この時、ロイエンタールが彼女に触れ、触れられることに、無意識な所で安寧感を抱いていたことには、まだ考えも及ばないヘネラリーフェであった。
「血が出てる」
　噛み締めた時に少し切ったのだろう。血の滲む薄紅色の口唇に端麗な彼の口唇が近づき、猫のようにペロリと舐めるように掠めていった。

　初めてピアスを付けたのは、まだダグラス存命の時だった。
　その昔、たった独り同盟という右も左もわからない世界に放り込まれたやり切れなさと苛立ちを、弱い者をいたぶる"大人"にぶつけ、結果的に警察に補導されたことがあった。
　だが、迎えに来た両親とダグラスに怒られるのではなく抱きしめられた事で、彼女の心はある意味救われのだ。
　この一件で、ヘネラリーフェは本当の意味でビュッコク家の一員になれたのだと心から思うことができた。
　そして、その想いを忘れない為に、その夜部屋でこっそり針で耳朶に穴をあけ、ピアスをつけたのだ。
　１２歳の少女の頃の話だ。あの時は、耳朶の痛みで一晩中眠れなかったことが、今は懐かしい。

「結局これを付けちゃうのよね」
（他にも色々あるのに……）
　ある快晴の朝、陽光に煌めく私室のドレッサーの前で、ヘネラリーフェは耳朶に輝くピアスを見つめながら呟いた。
　あの時、半分はロイエンタールに強引に、そして半分は自らの意思で付けたブルーダイアモンドのピアス。
　ヘネラリーフェが彼を憎んでいる時も、そして硝煙渦巻く帝国軍総旗艦ブリュンヒルトの中で真に心を通わせて抱き合った時も、それは絶えず鋭い程の輝き帯びてヘネラリーフェの耳朶にあった。
　そして今も琥珀色の髪を時折絡みつかせながら、彼女の白皙の肌を彩っている。
　ロイエンタールは、ただ眩しそうに二色の目を細めて、そんなヘネラリーフェの姿を眺めているのだ。