Eden Rose
夕焼けが嫌いだった。
ひとり見上げる夕陽が、震えるくらい寂しく見えたから。 でも今は…… ハイネセン・ビュコック邸、午後五時 「きゃっ☆」 玄関のドアのノブを掴もうとした所で、それがいきなり内側に開き、華奢な躰が広い胸に抱きつくようにしてぶつかってきた。同時に小さく上がる悲鳴。 パタパタと勢い良く駆け出してきた躰を条件反射で抱きとめながら、ロイエンタールは一瞬唖然と固まったものの、すぐにその端麗な口元に苦笑を浮かべた。 目の前にあるのは、落ちんばかりに見開かれた澄んだ青緑色の瞳。ビックリ眼がやけに可愛くて、ロイエンタールは思わずヘネラリーフェの躰を立て抱きに抱き上げていた。 「お姫様はお出かけか?」 「お帰りなさい♪ ちょっとそこまでね」 夏の日差しのような明るい笑顔でもってロイエンタールの額に軽く口付けてきたヘネラリーフェを見やれば、白の開襟ブラウスと空色のロングフレアスカートという涼しげな色合いの軽装に財布ひとつしか手にしていない。恐らく、夕食の準備中に足りない物があることに気付き、それを買いに行く所なのだろう。 「俺も行って良いか?」 「何も買ってあげないわよ」 (おいおい、俺は子供か?) 冗談なのか本気なのか、悪戯っぽく微笑みながらどちらともつかないような口調で紡がれた言葉に内心で切り返しておいてからヘネラリーフェの頬に軽く口付けると、着替えてくるからと言い置いて彼女の躰を降ろし、ロイエンタールはひとまず一旦家の中に入った。 家の中は、香しい夕餉の香りで満たされている。それは、優しさ溢れる香りでもあった。 それから十数分後、綿のシャツに麻のパンツというラフな装いに着替えたロイエンタールは、ヘネラリーフェと肩を並べて、そろそろ陽が傾きかけた街へと出掛けて行った。 ハイネセンポリスの閑静な住宅街に位置するビュコック家だが、実はたった二筋ほど隔てただけの所がショップなどが建ち並ぶ大通りとあって、生活の便は頗る良い。 「生クリームと、あとは……」 買い物リストと睨めっこしながら手際良く必要な物を買い揃えていくヘネラリーフェの後ろで、ロイエンタールは幾分所在なげに佇むだけだ。だが、その表情はどこか楽しげである。 ふと辺りを見渡せば、同じく夕食の買い出しらしき人の姿があちこちに見られ、その人並みを縫うようにして、家路につく子供達の笑い声が駆け抜けていく。 夕闇せまる街、夕餉の香り、光の灯る家、友達にバイバイと言って帰る家、帰りを待つ人、微笑んで迎えてくれる優しい人……これまで知りようのなかった懐かしさを覚える暖かい雰囲気と、それを心地良く感じる今の自分の存在がどこか夢現の世界のことのように思えて、ロイエンタールは暫し意識を彷徨わせた。 「お待たせ♪」 呼びかける声にハッと意識を浮上させる。 眼前には、ニョキっと突き出したバケット入りの紙袋を抱えたヘネラリーフェの澄んだ青緑色の双眸がある。夢でも幻でもなく、それは確かに今現在ロイエンタールが存在する世界の全てだ。 「終わったのか?」 「うん」 一言二言言葉を交わしながら、ロイエンタールがヘネラリーフェの手から紙袋をヒョイっと取り上げる。そのまま無言で歩き出した彼を早足で追いかけ、彼女はロイエンタールの腕に自らのそれを絡ませた。 「なんだか、夫婦みたいね♪」 何気ない一言が、ロイエンタールの胸を高鳴らせる。ヘネラリーフェ以外の誰かに言われても恐らく嫌悪感しか抱けないだろうその"単語"が、不思議と嫌ではなかった。 彼女への愛しさを押さえ切れず、端麗な口元に笑みが浮かび上がる。 「ね、お茶飲んで帰ろうか」 悪戯っぽい囁きと共に、ヘネラリーフェが急に路地を曲がった。 「良いのか?」 夕食の準備中に出てきたのに、寄り道などしている余裕が果たしてあるのだろうか……疑問顔のロイエンタールにはお構いなしに、ヘネラリーフェが彼の腕を引いてズンズンと歩を進める。 暫く行くと、路地から更に狭い路地へと曲がった所に、古びた煉瓦作りのアパートが現れた。一階部分はどうやらカフェのようだ。 「穴場なのよ、ここ」 言いながら、ドアを押す。と、そこには使い込まれた木製の重厚感溢れる机と椅子に漆喰の壁、そして間接照明からもたらされた柔らかなセピア色に満たされた空間が広がっていた。 自然光の光源は入ってきた入り口のドアのみ。それも、光を通すガラスの部分はほんの少ししかなく、どちらかと言うと狭い部類に入る店内はまるで地下に潜り込んだような印象を与える。だが、それが寧ろ居心地良く感じられた。 奥まった席に向かい合いに落ち着き、先に『コーヒー』と端的にオーダーを済ませたロイエンタールが相方の方を見やると、真剣な表情で革製のメニューを凝視している姿が目に入る。 まるで親の敵だと言わんばかりの視線の先にあるメニューの冊子にいずれ穴が開くのではないかと心配になるような、それはそんな眼差しだった。 「おい……」 思わず声をかけると、青緑色の双眸がジッと見つめ返してきた。 「どっちにしたら良いと思う?」 ヘネラリーフェがメニューの中の一部分を指で示してくる。そこには、如何にも女の子好みに可愛くデコレーションされた数種類のショートケーキの写真があった。 「・・・・・」 この世の終わり(と言うのは大袈裟だが)のような貌をして何を悩んでいるかと思えば、なんのことはない。ただ単にケーキを選び倦ねていただけのようだ。 ロイエンタールは思わずガックリと脱力した。馬鹿馬鹿しくて声も出ないとは、このことだろう。 「両方頼め」 ゲンナリとした表情でそう言うロイエンタールに、ヘネラリーフェが真顔で切り返す。 「だって、夕食食べられなくなったら困るじゃない」 (だったら、ケーキ自体諦めろ) 机に突っ伏したくなるのを辛うじて堪え、ロイエンタールは無言でウェイトレスを呼ぶ為にスッと手を挙げた。 「これとこれ」 優美な指で二カ所を指し示し、ヘネラリーフェがどちらを選ぶか悩みに悩んでいた『フレッシュピーチパイ』と『サマープディング』、それにフレバリーティーをオーダーし、さっさとメニューを片付けさせた。 「どうせ後悔するにきまっている……今、食っておけ」 端麗な口元から紡がれる端的な言葉に、ヘネラリーフェは上目使いでロイエンタールを見上げながらコクリと頷いた。 「ロイエンタールも食べる?」 「甘い物は嫌いだ」 それは承知しているが、ここのケーキは甘さ控えめで美味しいのだ。ヘネラリーフェもどちらかと言うと甘い物は苦手なのだが、その彼女が美味しいと言うのだから、つまり確実に美味しいということなのである。とは思っても、無理強いはできない。 結局運ばれてきた二個のケーキを嬉しそうに頬張るのは、ヘネラリーフェだけであった。 (幸福そうな貌して……) 無邪気にケーキをパク付く姿がまるで子供のようで微笑ましい。 コーヒーカップ片手に、頬杖を付きながらヘネラリーフェを見つめるロイエンタールの、いつもは冷ややかな印象を与える口元と二色の瞳に微かに笑みが浮かび上がった。 「美味いか、それ?」 「食べてみる?」 顔を近づけてヘネラリーフェに囁きかけたロイエンタールに、ケーキを一口分載せたフォークを差し出す。 ロイエンタールがそれを口に含むと、続いてもう一種類の方のケーキを載せたフォークを差し出した。 「どう?」 黒と蒼の双眸を、首を傾げながら覗き込むようにしてヘネラリーフェが訊ねてくる。 「ああ、美味いな」 もっとも、ロイエンタールにとってはヘネラリーフェから一口貰うからこその反応であって、それ以外では到底こんなリアクションは出てこないだろう。まあ、本人が幸福そうなので、それはそれで由なのだが…… 「でしょ♪」 笑顔の眩しさに、ロイエンタールが目を細める。 その後も、見ようによってはヘネラリーフェの方が一方的に捲し立て、ロイエンタールはそれを微笑を湛えながら聞き耳を立てるという光景でもって、とりとめのない会話を続ける。 会話とは、相手が聞いてくれているとわかった時点で、一方通行ではなくなるものなのだ。 そんな二人が漸く席を立ったのは、小一時間も経った頃だった。 カフェから出ると、辺りは夕焼け色に彩られていた。 「早く帰らなくっちゃ」 ついつい手軽なデートとしゃれ込んでしまったが、今頃ビュコック家では義母が制作途中の夕食を前にヤキモキしているに違いない。 来たときと同じように、食材入りの紙袋を無言でヘネラリーフェの手から奪い取ったロイエンタールの大きな手の中に、ヘネラリーフェの華奢な指が滑り込んだ。 「!?」 思わず固まったロイエンタールに、悪戯っぽい光を湛えた青緑色の瞳が微笑みかける。 「タマには良いでしょ、こういうのも」 というより、一度やってみたかったと言った方が正確かもしれない。返事の代わりに、ロイエンタールの口元からクスリと忍び笑いが零れ落ちた。 大きくて暖かい手がヘネラリーフェの華奢な手を強く握りしめると、その力に促され、彼女がロイエンタールの身体に身を持たせ掛けるように寄り添う。 仲良く手を繋いで家路につく二人を、茜色の夕陽が優しく包み込んだ。 家に辿り着くと、既に門灯が灯されていた。ヘネラリーフェが繋いでいた手を離し、小走りに駆け出す。 その時、玄関に至るまでの数段の階段に辿り着いたヘネラリーフェの背後に長く伸びる彼女の影がロイエンタールの金銀妖瞳に映った。近づいてヘネラリーフェの斜め後ろに立つと、それが重なり合う。 ヘネラリーフェに出逢う前、ロイエンタールは夕焼けが嫌いだった。帰る日、見上げた夕陽が震える程哀しく、そして寂しく見えたから。 なのに、不思議だ……それが今はとても優しく見える。ただ長く伸びていく影が一つではなくなった、それだけなのに。たったそれだけのことなのに、どうして心が温かくなるのだろう。 細い腕を掴んでそっと引き寄せると、振り仰ぐように青緑色の瞳がロイエンタールを見上げてきた。深く揺蕩るそれが、夕陽の色に彩られて輝く。 いきなりどうしたんだと言わんばかりに、ぽかんと半開きになった可憐な薄紅色の口唇に誘われるように、彼が端麗なそれを重ねようとすると…… 「お前達、何をしとるんじゃ、こんな所で?」 「!?」 突然かけられた声にギョッとしながら離れた二人の眼前に穏やかな風貌の老人、言わずとしれたこの家の主であるアレクサンドル=ビュコックが立っていた。 「お義父さん、お帰りなさい♪」 幾分慌て気味にロイエンタールから離れたヘネラリーフェが、だが嬉しそうに義父に抱き付いていく。 「ただいま」 娘の躰を抱きとめながらロイエンタールに笑いかけるビュコックに、彼は唖然とした。帰宅時間が重なったのは偶然に違いないが、だが声を掛けるタイミングは偶然ではないと悟ったのだ。 (さすが、狸ジジイ) 娘が娘なら親も親。いや、それよりも何よりも、ヤンやシェーンコップをはじめとする『あの』十三艦隊の面々が一目置くくらいなのだから狸で当然なのだろうが、実際にその狸ぶりを目の当たりにするのが初めてなロイエンタールとあっては、翻弄されるのも無理はない。 「あらあら、お帰りなさい。みんなお揃いでどうしたの?」 外の気配に、ビュコック婦人が顔を覗かせた。夕陽の中、"家族"四人の影が複雑に重なり合う。 「リーフェ、生クリーム買ってきてくれた?」 「あ、うん。ごめ〜〜ん、すぐに夕食作るね」 義母の言葉に、ロイエンタールの手から荷物を受け取ったヘネラリーフェが慌てて家の中に駆け込んでいく。 その後をビュコック夫妻と共に追いながら、ロイエンタールは老元帥に小さく囁いた。 「親父さん、結構意地悪ですね」 ビュコックはクツクツと笑っただけで何も言わなかったが、結局の所その意地悪は、愛娘を独占する息子同然の男へのささやかな意趣返しであり、かつてロイエンタールの実の親が幼い彼を精神的に追い詰めた行いとはかけ離れた、深い愛情溢れる行為なのである。 それがわかるから、ロイエンタールの心は更に満たされるのだ。 「夕食、もうすぐ出来るわよ」 白いヒラヒラエプロンを付けたヘネラリーフェがいつまでも家の中に入ってこない三人にしびれを切らし、玄関から貌を出した。 声に促されるように歩を進めながらふと外を振り返ると、夕焼けは既に消え辺りには薄闇が迫りつつある。家族の影も既に消え失せていた。 その代わり、今度は家の中の明るい灯りと家族の笑顔がロイエンタールを優しく包み込む。それは、彼が無意識な所で絶えず求め続けていたものでもあった。 Fin *かいせつ* またしても、意味のないお話でございます<(_ _)> 2002/7/2 かくてる♪てぃすと 蒼乃拝 |