赤とピンクと白のハートに彩られる２月の街を、ヘネラリーフェは呆気にとられたような表情でノロノロと歩いていた。
「明日ってバレンタインだったんだ」
抜かった……ここ数年、女の子が俄然張り切るこのイベントからすっかり遠ざかっていた為、思いっきり失念していたのだ。
お菓子業界の陰謀と言ってしまえばそれまでだが、それでもなんとなくウキウキしてしまうのは、恋の魔術だろうか。
駄菓子菓子！！
「でもロイエンタール、甘いもの嫌いだしな」
そうなのだ。彼は甘い物が苦手なのである。
相手が嫌いなものを贈ることほど無意味なことはないだろうし、贈ってもそのチョコレートの命運はゴミ箱行きと決まっているようなものだから、虚しいことこのうえない。
かと言って、明日がバレンタインと気付いてしまってから無視も出来ないところがやはり女の子なヘネラリーフェなのである。
「まったく、なんだって甘いものが苦手な設定になんてすんのよ」
もしもしお嬢さん、一体誰に毒づいているの？
「そんなの設定した大莫迦者Ａに決まっているじゃない！！」
しょうがないじゃない、ロイエンタールって如何にもそんなイメージなんだから。
以上、天の声。
傍目から見ると大きな独り言を言っているようにしか見えないヘネラリーフェに、通りがかりの人々が怪訝な眼差しを投げかける。
「と、とにかく」
それらの視線をやり過ごすべく早足に歩きながら、ヘネラリーフェは思考を巡らせた。
とにかく無視はできない。でも、甘いチョコレートを贈るのも憚られる。だが、折角のバレンタインなんだから、実のところチョコレートにこだわりたいのも微妙な女心だし。
「何渡そう」
チョコレート以外でロイエンタールの気に入るもの、でもバレンタインバージョンなプレゼントだなんて都合の良いものなど全然思い付かない。
めぼしいものがないか、通り沿いのショップを覗きながらブラブラ歩くもののこれといったものは見つからす、結局小一時間もしたところでヘネラリーフェは歩き疲れて音を上げた。
「見つからなぁ〜〜い」
一体通りを何往復したことやら……
「やっぱり捨てられると分かっていてもチョコレートしかないかしら」
いや、ロイエンタールならヘネラリーフェからの贈り物なら例え砂糖１００倍の極甘チョコでも絶対に残さず食べると思うけどな。
「だからって嫌いなものをあげるわけにはいかないでしょ！！」
天からの声にまたしても大きく毒づきながら、ヘネラリーフェは溜息をついた。
「どうしよう、もう明日なのに」
とは言っても、これだけ歩き回った結果何も見つからなかったのだから、これ以上ここで悩んでいても結局何も見つからないような気もする。
「帰ろうかな」
忘れたふり……なんてしたら、ロイエンタールは拗ねるかなぁなどと考えながら、帰る方向に足を向けた。
「こんなに悩んだ結果なんだから、許してくれないかしら」
調子の良いことを考えながらも、でもイザとなったら手料理でもなんでも作ってあげるからねと、ここには居ないロイエンタールに詫びてみたり。
とにかくこれではキリがないとばかりに、そろそろ陽も傾きはじめた街をヘネラリーフェは早足で歩き出した。
と、少し行った所で割と大きなワインショップの前を通りがかり足を止める。
「折角だからワインでも見繕っていこうかな」
まあ、バレンタインっぽいプレゼントではないが、何もないよりはマシだろうし、ロイエンタールにしても甘いチョコよりは好みの酒の方が喜ぶに違いない。
ワインショップとは言うものの、どうやらその店はアルコール全般を扱っているようで、ウイスキーにブランデーに大吟醸（←あるのか、そんなもん）と、ワインは無論のことその他のものの品揃えもなかなかに豊富だった。
ワインはどうやらワイン専用のセラーにあるようで、ヘネラリーフェはひとまずセラーの入り口がある店の奥へと向かう。
と、そこで彼女が小さく声をあげた。
「あ！？」
あと数歩で目的地というところで突然足を止めたヘネラリーフェの眼前には、リキュール類の棚がある。別にとりたてて珍しいものが置いてあるわけでもないその棚を暫く眺めた後、彼女は一本のリキュールを手に取った。
背の低い丸いビンは、まるでチョコレートの包み紙のような金色の光沢のあるホイルのような薄い包み紙で包まれている。その包装に貼られた茶色のラベルには金の印字で『mozart chocolate cream liqueur』とあった。
「いいもの、み〜〜っけ♪」
ヘネラリーフェが嬉々とした声音で呟き、眼前のワインセラーのことなどとうに忘れたのか、そのリキュールを手にしたままクルリと踵を返して元来た道を引き返す。
「こっれくっださぁ〜〜い☆」
数十秒後、弾んだアルトの声がワインショップの中に華やかに響いた。
もっともそれから更に数分後には、さっきの嬉々とした様子とはうって変わって、店先で呆れたように溜息を吐いていたのだが……
「勢いで買っちゃったけど、良く考えればこれ甘いわよね、当然」
ワインショップの店員はビターチョコレートの味だと言っていたが、それでもチョコレートなことに変わりはないのだから、酒とは言えやはり甘いだろう。
「やっぱ、やめときゃ良かったかしら」
箱に入れてリボンまでかけてもらったチョコレートリキュール『モーツァルト』を抱えながら、ヘネラリーフェは後悔したかのように呟く。
「ま、いっか。いざとなったら自分で呑めばいいわけだし」
ヘネラリーフェ自身、甘い物が大好きというわけではないが、だがロイエンタールほど毛嫌いしているわけでもない。日数をかければ呑み切れないこともないだろうし、アルコールがそう簡単に腐るはずもない。
「さすがに料理には使えないしねぇ」
チョコレートリキュールを料理の隠し味に使おうだなんて、料理研究家でも考えやしないだろう。想像しただけで……
「おえっ」
どうやら律儀に想像して気持ち悪くなった人間が約一名。
「ま、いいわ。とにかく帰らなきゃ」
冬の陽は落ちるのが早い。店に入る頃にはまだ茜色に輝いていた街はすっかり群青色に彩られ街の灯りが煌きだしていた。
腕時計に目をやると、時刻は既に夕方６時を回っている。そろそろ執事や使用人達が心配しはじめていることだろう。ロイエンタール家の使用人は主人同様、今やすっかりロイエンタール家の女主人であるヘネラリーフェに対して過保護丸出しなのである。
とにもかくにも、通りで拾った車の中でチョコレートリキュールの箱を膝に抱きながら、少〜〜し後悔しつつも、少〜〜しウキウキしながら、ヘネラリーフェは家路についたのだった。
「お嬢様、お嬢様」
執事の呼び掛けにヘネラリーフェはハッとしたように飛び起きた。
「こんな所でうたた寝していては、お風邪をお召しになりますよ」
どうやら居間でロイエンタールを待つうちに、そのままソファの上でうとうとしてしまったようだ。
「今、何時？」
頭を軽く振りながら執事に尋ねると、あと数分で日付けが変わると告げられた。
「もうお休みなったらいかがですか？ 旦那様のことですから、いつお帰りになられるか……」
確かに、このまま起きていても帰ってくる保証はない。もしかすると朝帰りなんてことも決して低くない確率であり得るのだ。
が！！ そうしたいのは山々なのだが、折角あと数分で日付けが変わる、つまりバレンタインデーになるのだから、このままロイエンタールの帰宅を待ってプレゼントを渡したいなぁなどと乙女チックなことを考えているヘネラリーフェだったりする。
「１４日中に帰って来てくれるかしら」
執事相手だと割と素直な気持ちを口にするヘネラリーフェの言葉に、執事は微笑ましさを隠し切れず思わず口元を綻ばせた。
「明日は確かお休みの筈ですよ」
「へ？ そうだったっけ？」
そう言われてみれば、今朝ロイエンタールが出掛ける真際にそんなことを言っていたような覚えがあるようなないような。
どうせいつも遅いからと、いい加減に聞いていたのがバレバレである。が、明日が（もう今日になろうとしているが）休みだというなら、まあ無理して起きていなくても、１４日中には顔を合わせられるだろう。
「じゃあ、先に休むことにするわ」
一体いつ休んでいるのか未だに疑問な執事氏に一言言い残すと、ヘネラリーフェは寝室へと向かったのだった。
翌朝、少々陽が高くなってから目を覚ましたヘネラリーフェの横には、当然のごとくちゃっかりロイエンタールが横たわっていた。
「ったく……いつ帰って来たのよ」
散々待たせた挙げ句に、いけしゃあしゃあとヘネラリーフェの横に滑り込むその神経に思わず溜息が漏れる。
「澄ましちゃってぇ」
気持ち良さそうな寝息をたてるロイエンタールのダークブラウンの髪を、華奢な指でグシャグシャワシャワシャと乱暴に掻き乱すと、ヘネラリーフェはそれでも彼を起こさないようにそっとベッドを降りた。
実は、未明にロイエンタールが帰宅し眠る彼女の隣に滑り込む際、ヘネラリーフェは夢うつつながらもちゃんと『おかえりなさい』と迎えているのだが、どうやら本人は全然覚えていない模様である。
薄手の夜着の上にガウンを羽織ると、そっと足音を忍ばせて寝室とは二間続きになっている居間へと退避した。と、居間の豪奢な布張りのソファの上に無造作に投げ出してある軍服が目に入る。
「あ〜〜あ、ロイエンタールったら」
未明に疲れて帰って来たのだろうから気持ちはわかるが、でもこんな風に無造作に脱ぎ散らかしておいたのでは皺になってしまい、次に着る時に不便だということには考えが及ばないのだろうか？
もっとも、今日はたまたまこんな状態をヘネラリーフェが発見しただけのことで、普段は執事なり使用人なりがこの手の惨状を手早く片付けてはいるのだろうが。
「しょうのない人ね、まったく」
呆れたような声で呟きながら、華麗な軍服の上着を手に取る。と、何かがパサリと音をたてて床に落ちた。
「？」
咄嗟に足下に目をやると……
「こ、これは！？」
ラベンダーとグリーンのパステルカラーの可愛らしさの中にも気品溢れる包み紙でラッピングされたそれは、年に一度の特別な日に相応しい優美なデザインで、今日という日だからこそ誰が見ても見間違うことなどないものだ。
「G＊D＊V＊じゃない、これ〜〜〜〜」
千数百年の昔から時の王族に愛されてきたチョコレートのブランドの名は、甘いものがそれほど好きではないヘネラリーフェにもわかるものである。
ムカムカムカ〜〜〜〜〜〜
どうやらヘネラリーフェさん、無性に腹立たしくなってきたようだ。
「あったまきたぁぁぁ〜〜〜〜！！！」
人が散々悩んで、甘いもの嫌いのロイエンタールにも喜んでもらそうなものを探しまくり疲れ果てていたというのに、当の本人は嫌いと言いつつもちゃっかり貰い物のチョコレートを懐に入れて持ち帰ってきているのだ。
しかもどう見ても本命チョコを！！ である。
「なによ、ロイエンタールのバカ〜〜」
考えれば考えるほどムカムカきて、隣の寝室で安眠しているロイが憎らしくなってきてしまう。
ひとり苛々するヘネラリーフェの耳に、今度は階下からのざわめきが届いた。
チョコレートの箱を手にしたまま部屋を出、階段の踊り場から下を覗くと……
「ちわ〜〜 黒猫屋で〜〜す。お荷物お届けにあがりました〜〜」
軽快な声と共に、だがとてつもなく大きな（それこそ人間の一人や二人、軽く納まりそうな）箱がひとつ、またひとつと運び込まれてくる。
「な、なぁに、あれ！？」
数分をかけて運び込まれた箱は全部で五つ。その場で見守っていると、使用人達が手慣れた様子で箱を開いていく。
「ロイエンタールの奴〜〜〜〜〜」
低い声が可憐な口元から零れ落ちた。
箱から出て来たのは、色とりどりにラッピングされた小箱の山。そう、言わずと知れたチョコレートの山である。
どうやら帝国中から集められたロイエンタール宛のチョコレートの山を配達しやすいように宅急便屋の方で箱にまとめて配送してきたらしい。
余談だが、ロイエンタール宛のチョコの山は、この５箱で終わったわけではなく、その日は一日中チョコレート満載な大きな箱がひっきりなしに届けられた。
それはさておき、踊り場から下を覗き込みながら、だがヘネラリーフェはワナワナと怒り心頭状態にあった。
例のチョコレートをそのまま階下に投げ捨ててやろうかと思いながらも、それよりもなによりもそれをロイエンタールの目に触れさせたくないという考えが湧き出してくる。
いや、さすがに山盛りのチョコレートすべてをどうにかしようなどとは土台無理な話しなのだが、今ヘネラリーフェの手の中にある力の入ったG＊D＊V＊の本命チョコレートだけなら、隠匿は簡単である。
なんだかんだと正当な理由を頭の中ででっちあげながら最後に到達した結論は、
「食べちゃえっ」
珍しい……これはひょっとして『嫉妬』というやつだろうか？ 滅多にお目にかかれない姿だろう。ロイエンタールが眠っているのが些か残念な光景かもしれない。
と、傍観している間にも、ヘネラリーフェはG＊D＊V＊の包み紙をバリバリと開いていく。
「大体、私がいるって知っているくせに（直接手渡しするくらいに身近にいる人間なら、ヘネラリーフェの存在くらい知っているだろう）これ見よがしに渡すなっていうのよ！！」
そう愚痴ると、ほとんどヤケ食いな様相でヘネラリーフェはガブリとG＊D＊V＊のチョコレートにかぶりついた。
チョコレートの筈なのに、不思議なことにスッキリとした紅茶の香りがするそれを半分口に銜たところで、いきなり背後に人の気配を感じヘネラリーフェは飛び上がった。
「うわっ」
実際はチョコレートを銜えているので『ムグっ』なのだが、とにかくビックリ仰天した彼女が思わず声をあげながら背後を振り返る。
今更説明するまでもなく当然それはロイエンタールであるのだが、正真正銘起き抜けであるらしく素肌に直接ガウンを羽織っただけの、しかも先程ヘネラリーフェがワシャワシャと掻き乱したそのままだったので、いつもきっちり整えられている髪も些か乱れ気味で、全体的にいつもとはどことなく雰囲気が違う。
が、中身はロイエンタールなので、その体勢からどう動くかと言えば決まりきったこと。彼は驚いたまま一瞬固まったヘネラリーフェの華奢な躯をチャンスとばかりに抱き竦め、更にチョコレートを銜えたままの彼女の口唇にガブリと噛み付いた。
「何すんのよ〜〜〜〜〜！！」
チョコレートを咽に詰まらせそうになりながらもなんとか飲み込んで、ヘネラリーフェは焦りながら騒いだ。
が、見ると先程ヘネラリーフェの口唇に銜えられていたチョコレートのそのまた半分がロイエンタールの口唇にあるのが見えて、彼女は唖然と言葉を呑んだ。
「チョコが欲しいなら、沢山あるでしょ！！」
言いながら、手の中にあるG＊D＊V＊の箱を突っ慳貪に差し出す。
「チョコなぞいらん。俺は最初からこっちの方が欲しくてな」
こっちというのは、どっちだ？ 言葉の意味を把握しかねてキョトンとしたヘネラリーフェにニヤリと意地の悪い笑みを見せると、ロイエンタールは再び彼女の口唇を奪った。
今度は、先程のようなお遊びのものではなく、可憐な口唇の間から舌をスルリと忍び込ませ、彼女の甘やかな舌を捕らえ絡め蹂躙し、味わい尽くすような濃厚な口付けを施す。
「甘いな」
当然である。チョコレートを頬張った後なのだから。というか、ロイエンタール自信もヘネラリーフェの銜えていたチョコレートの上前を撥ねた後なので、今回に限っては甘いのは双方なのだが。
「だから、チョコが欲しけりゃ……」
ここにもあるし、階下にはもっと沢山あるわよ……と、むくれたような声をあげるヘネラリーフェの躯を、ロイエンタールは有無を言わさず横抱きに抱き上げた。
「何するのよ！」
「さっき言っただろ？ 始めからこっちの方が欲しかったって」
言いながら迷わず寝室へと足を向ける彼の腕の中でヘネラリーフェがバタバタと暴れる。
「こっちの方がって何よ〜〜〜」
だったらチョコレートなんて貰ってくるな〜〜〜〜 そう叫ぶものの、ロイエンタールはただ口元に楽し気な笑みを浮かべるだけで歩みは止まらない。それどころか、
「なんだ、嫉妬してるのか？」
と、応酬するありさまだ。
「嫉妬なんてしてないわよ！！」
図星をつかれてヘネラリーフェ、必死に応戦するも説得力まるでなしだ。
結局の所、ロイエンタールはヘネラリーフェの食べたものの上前を撥ねることが楽しいのだろう。言い換えれば、チョコレートにもそれをくれる数多の女性にもまったく興味はないが、ヘネラリーフェが関わるとまったく別ものになるということだろうか。もうこれは、『御馳走様』以外の何ものでもない光景である。
バタつく華奢な躯を横抱きにしながらも、器用に私室と寝室のドアをあけると、尚も暴れるヘネラリーフェをポイっとベッドに投げ出した。まるで猫かなにかのような扱い方である。
が、いつもならここで当然返ってくるはずの反応が、この日に限って返ってこない。（←いつものヘネラリーフェなら、ここで一度はベッドから降りようと無駄な反抗を試みるのである）
「？」
本気で怒らせたか？ と、些か心配になったロイエンタールは、枕に顔を埋めたまま微動だにしないヘネラリーフェを覗き込もうとしたところで固まった。
いきなり彼女が"ムクッ"と起き上がり、ロイエンタールを真直ぐに凝視してきたのだ。しかもその青緑色の双眸は完全に据わっている。
ロイエンタール程の男が狼狽えるくらいだから、それはかなり危ない据わり具合と見て良いだろう。
「どどど、どうしたんだ？」
戸惑うロイエンタールになどお構いなしに、彼の首に華奢な両腕を回して抱き付くと、そのままロイエンタールの身体を下にベッドに倒れ込み、可憐な口唇を端麗なそれに重ね合わせてきた。
「リ、リーフェ？」
いつになく積極的なヘネラリーフェに正直面喰らうばかりで、ロイエンタールは彼らしくもなくされるがままだ。
ハッと気付いた時には、細い指がガウンの襟の合わせ目をはだけさせ、内側に滑り込もうとしていた。咄嗟に華奢な手首を掴みヘネラリーフェの動きを止めようとする。
「待て」
「待てない」
間髪を入れず言葉を返すと、阻まれた腕はそのままにロイエンタールのはだけた胸に口付け、更にそれが徐々に下降の一途を辿る。
「ちょちょちょ、ちょっと待て〜〜〜〜〜」
「だから、待てないって言ってるでしょ」
こんな積極的なヘネラリーフェにはついぞお目にかかったことなどない。その気にさせるのにも、手間暇時間をかけてやっとというのがいつものパターンなのだ。もっとも、なかなか堕ちないお姫さまを如何に堕とすかも手管の見せ所なのだが。それに苦労した分、見返りも大きかったりするし。
それが、今日はいきなりこの状態なのだ。さすがのロイエンタールも何が起きているのかさっぱり把握できず唖然とするほかない状態である。
（酔っぱらっているのか？）
だが、酒など口にはしてない筈だし、そもそもヘネラリーフェが酔っぱらって正気を無くすなど、それこそ手間暇時間をかけないと土台無理な話しだ。なにせイゼルローン仕込みのヘネラリーフェの酒量はロイエンタールもビックリな程の蟒蛇状態なのだから。だが、そうなるとますます原因がわからない。
と、そうこう考える間にもヘネラリーフェの行為は留まるどころかエスカレートする一方で、彼女の愛撫にロイエンタールの均整のとれた身体がビクリと撥ね一瞬仰け反った。
「うわっ、やめ……」
このままではお婿に行けなくなってしまう〜〜〜〜 心の中でそう叫んだかどうかは定かではないが、とにかく悠長にヘネラリーフェにされるがままというのはロイエンタールの矜持が許さない。
彼はベッドの上で勢いをつけて半回転し、ヘネラリーフェの躯と自分の身体の位置を入れ替え、彼女を組み敷いた。
冷静になって考えてみれば、これほど美味しいシチュエーションはないと気付いたのだ。何の影響かはわからないが、だがヘネラリーフェの方から求めくるなどそうあることではない。
組み敷いても抗議の声は聞かれず、それどころかロイエンタールの身体に腕を絡ませながら躯をすり寄せてくるこの状況は、つまりとんでもないチャンスなのだ。このチャンスを逃す手はない。
「では遠慮なく」
心の中で『いただきます♪』と呟き、ロイエンタールはヘネラリーフェの肢体を存分に味わうべく彼女の着衣に手をかけた。
目が覚めると既に夕闇が迫りつつあった。どうやら、事がすんだ後すっかり寝入ってしまっていたようだ。
隣を見ると、やはりヘネラリーフェが疲れ切った華奢な裸体を横たえている。
これまでにない程、激しく何度もロイエンタールを求めた彼女は最後はほとんど意識を飛ばした状態でベッドに崩れ落ちた。それ故、眠る表情も些か疲労の色が濃い。
それでも安心しきったような無邪気な寝顔を見せるヘネラリーフェの可憐な口唇に軽く口付けると、ロイエンタールはそっとベッドから降り、気怠さを纏ったままシャワーを浴び身なりを整えて隣室へ向かった。
そろそろ夕刻のニュースの始まる時間だ。ロイエンタールはソリビジョンのスイッチを入れ、サイドボードからブランデーを出しグラス片手にソファに身を落ち着けると、読みかけの本に手を伸ばした。
耳の意識はソリビジョンから聞こえてくるニュースキャスターの声に、だが目は活字を追っていく。が、次の瞬間、ロイエンタールは本を取り落としそうになりながら愕然とした表情でソリビジョンを凝視していた。
思わずブランデーを咽に詰まらせたくらいだから、相当ショックだったのだろう。
「な、なんだとぉ？」
ニュースキャスターが繰り返し言っているのは"ある意味"緊迫性の高い速報だった。
『G＊D＊V＊のチョコレートに入っている香料に媚薬成分が含まれていることが判明いたしました』
どうやら今年新発売になったもので、チョコレートなのにまったく別の香りをつける為に開発された香料が諸悪の根源らしい。
「まったく別の香りって、まさか」
心当たりありすぎ……
『ただこの媚薬は男性には効果がないものですので……』
ニュースキャスターは、隣の女性アナウンサーとこのチョコレート騒動に関する談笑に入った。
要するに、今日はバレンタインで、問題のチョコレートを口に入れるのは男性だから心配はないと言いたいらしい。無論この事件を軽く見ているわけでなく根拠があるのだ。つまり、G＊D＊V＊は本命用だからいう意味だろう。
しかぁし！！
「じゃあ、女が食えばどうなるんだ！？」
ヘネラリーフェの口から奪い取ったチョコレートは紅茶の香りがした。しかも、G＊D＊V＊だ。
「ヘネラリーフェのあの変容はもしや……」
ロイエンタールは慌てて寝室に駆け込んだ。ニュースでは何も言ってなかったから、例え女性が食べても何か害があるわけでもないだろうが、だがやはり後遺症が心配だった。
豪奢な寝室の広いベッドの上で、ヘネラリーフェは相変わらず安らかな寝息をたてている。それだけを見ていればこれといって異変は感じられず、ロイエンタールはひとまず安堵の溜息を吐きながらベッドの端に腰を降ろした。
「起こした方がいいのか、やめたほうがいいのか……」
ひとまず安堵はしたものの、だが目覚めるまで気が気ではなくなりそうだ。
まったく、こんなことならチョコレートなど持ち帰るのではなかった。断るのが面倒でついつい受け取ってしまったのが、そもそもの元凶なのだ。
おまけに、美味しいシチュエーションにラリホーしている場合でもなかった。
「自己嫌悪に陥りそうだ」
呟きながら、眠るヘネラリーフェの乱れて頬に落ち掛かる琥珀色の髪を指で払うと、その感触にか彼女が微かに身じろぎした。
「ん……」
息を潜めて見守ると、青緑色の瞳がうっすらと開かれる。
「リーフェ？」
小さく呼び掛けると、ちゃんと反応して視線をロイエンタールの方に向けた。正に安堵の瞬間である。が、更に数瞬後、それは脆くも崩れ去った。
ベッドの上に起き上がったヘネラリーフェが、突然再びベッドの上に倒れ込んだのだ。
「リーフェ！？」
思わず叫んで、だがその声にヘネラリーフェの眉が益々顰められる。
「どうした？ 気分でも悪いのか？」
青ざめた表情で覗き込むと、華奢な腕が伸びてくる。起こしてと言いたいのだろう。ロイエンタールはヘネラリーフェをそっと抱き起こしてやった。
「なんだか、頭が凄く痛い。躯も怠いし」
躯が怠いのは……言いかけて、だがロイエンタールは口を噤んだ。なんとなく会話が噛み合っていないことに気付いたのだ。
案の定、彼女は何気に見下ろした自らの状態に呆気に取られたように見入った。
「＊◆％！＃＄△？￥＠×＆★」
全裸なのは無論のこと、白皙の肌に無数に散らばる朱い花弁に、声もなく口をパクパクさせながらロイエンタールを見やる。その縋るような目つきに、ロイエンタールは溜息を吐いた。
「覚えていないのか？」
「何を？」
「・・・・・」（←ガックシ）
ロイエンタールもまた、頭痛を耐えるような表情になった。あれほど激しく求めてきたというのに、あの情事自体を覚えていないのだ。頭痛どころか、完全ノックアウト状態である。
男にとってはなんとも切ない話だ。しかしながら、恐らくこれは媚薬の後遺症なのだろう。となれば、ヘネラリーフェを責めるわけにもいかないし、ロイエンタールの方も機嫌を損ねるわけにもいかない。そもそもの原因は、知らなかったとは言えそんなチョコレートを受け取ってしまった自分にあるわけだし。
とにかく、頭痛と疲労の激しいヘネラリーフェにいつものような子供っぽい感情をぶつけるわけにもいかず、ひとまず情痕の残る彼女の肌にガウンを羽織らせてやる。
と、そこにノックの音が響き、入室を促すと執事がトレーに湯気の立ち上るカップを二つ乗せて現れた。
「旦那様、そろそろお夕食の時刻ですが」
カーテンを閉め、灯りは具合の悪そうなヘネらリーフェを気遣ってオレンジ色の間接照明のみ灯けてから、執事がロイエンタールに伺いをたてる。
「食べられそうか？」
これは無論ヘネラリーフェへの問いかけ。
「頭痛くてそれどころじゃなぁ〜〜い」
呻くようにそう言うと、そんな自分の声が頭に響いたのか彼女は再び眉を顰めた。まるで二日酔い状態である。
「お嬢様」
控えめな声がヘネラリーフェにかけられた。見ると、執事がカップを差し出している。
「ホットミルクですよ」
食事は駄目でもこれくらいならという執事の心遣いなのだろう。ヘネラリーフェは微かに口元を綻ばせながらそれを受け取った。
「旦那様も如何ですか？」
この言葉には、さすがのロイエンタールも憮然とした。いくらなんでも、彼がミルクなど飲まないことは、永年仕えている執事なら嫌というほど知っている筈なのだ。
「いらん」
「そうおっしゃらずに」
にこやかな笑みをたたえる執事が、言いながらそっとヘネラリーフェを見遣る。その瞬間、彼女は執事がなぜホットミルクをロイエンタールの分まで運んできたのかを悟った。
「飲んでみると案外美味しいものですよ。ね、お嬢様？」
これはつまり、駄目押しの言葉か？ ヘネラリーフェはドギマギしながらも、だが上目遣いに執事とロイエンタール双方の顔を見遣る。
「なんだ？ ふたりで何を企んでいる？」
さすがにロイエンタールも執事の言葉の裏に何かを読み取ったようだ。憮然とした表情と同じく口調まで憮然としている。
これはマズイ……ヘネラリーフェは慌てた。このまま放っておくと確実にロイエンタールは機嫌を損ねてしまうだろうと確信したのだ。
「あの、あのね！！」
カップをサイドテーブルに置き、思わずロイエンタールの腕を掴みながら声をあげるヘネラリーフェだが、その後の言葉が出てこない。気恥ずかしいというか、なんというか……今さら少女めいたことをしているよなぁと我ながらくすぐったくなってきたのだ。
「なんだ？」
「う、うん、えっと、あのね、その……」
あああ〜〜 なんて自分らしくもないまどろっこしい会話をしているのだろう！！ヘネラリーフェは内心で自分を罵倒した。
執事はお膳立てはしたとでも言いたげに、そっと部屋を出て行く。二人きりになった空間で、ヘネラリーフェはなけなしの度胸を総動員して行動に移った。
頭痛に呻きながらもそろりそろりとベッドを降り、どういうわけか床に座り込む。訝し気な眼差しでそれを見守るロイエンタールの前で、ヘネラリーフェがベッドの下からリボンのかけられた箱を取り出した。
「これ……」
再びベッドの上に座り込みながらバツの悪そうな表情で差し出されたそれを受け取り、箱の表面に視線を走らせる。箱には金色の文字で『mozart chocolate cream liqueur』とあった。
「？」
目で問われて、ヘネラリーフェはおずおずと口を開く。
「ご免ね、多分それ甘いと思うの。甘いの嫌いなのにそんなの贈るのも憚られたんだけど、他に良いものが見つからなくて……」
珍しくも、えらく遠回しな言い回しである。
「試飲して買ったわけじゃないし、いくらビターと言っても甘いはずなのよね。アルコールとは言えチョコレートリキュールなんだし」
隣家に行くのに、わざわざ反対側から惑星を一周して出かけるような遠回しな言い方に最初は訳がわからないという表情だったロイエンタールも、チョコレートという言葉で全てを悟ったようだ。
言い訳を思い付く限り並べ立てるヘネラリーフェへの微笑ましさと愛しさが湧きあがってくる。
「だからその、甘いの嫌いだし、気に入らないなら捨ててくれても……」
捨ててくれても構わない……そう言おうとして、だがその言葉はロイエンタールの優美な指によって阻まれた。
「お前からのプレゼントを、誰が捨てるって？」
「だって、チョコレートなんて嫌いでしょ？」
ヘネラリーフェは自分の痴態こそは記憶してないが、だが今日はとにかくチョコレートに振り回された一日でもあるわけで、嫌いだということも手伝ってロイエンタールが喜んでくれそうなプレゼントとはとても思えなかった。
「お前がくれるものなら砂糖１００倍でも大歓迎だ」
何よりも、一生懸命考えて選んでくれたその気持ちが嬉しくない筈がない。思わずロイエンタールの端麗な口元から、クククという潜めた笑いが零れ落ちた。
「ごめん……呆れちゃった？」
「違う違う、可愛いなと思ってな」
不器用さといい、遠回しな言い回しといい、言い訳といい、そしてチョコレートを寄越した女性に嫉妬するところといい、その全ての仕種が心底可愛いと思う。嫉妬が嬉しいだなんて言ったら、ヘネラリーフェはどういう反応を示すだろう？
「どうせ子供っっぽですよ、私は」
本命チョコに嫉妬してカブリついたりしたんだからと俯くヘネラリーフェの額を微笑みながら指でチョンと小突くと、ロイエンタールはミルク入りのカップを彼女の目の前に差し出した。
「？」
「入れてくれ」
「へ？」
「そのリキュール、早速御相伴に預かりたい。入れてくれ」
「あ、うん……でも……」
言い淀みながらも、だが確かに文句を言われてもいいから、一口くらいはプレゼントした本人に呑んでもらいたいというのも本心だ。ヘネラリーフェは箱からリキュールを取り出すと、ロイエンタールの持つカップに注ぎ入れた。
ホットミルクに溶けて辺りにフワリと芳香が漂う。それは確かに甘い香りではあったが、だがどこかスッキリとしていて、甘いものが苦手なロイエンタールにとっても決して嫌な香りではなかった。
カップに口をつける。一瞬をおいて嚥下する音。不安そうな表情で見守るヘネラリーフェに彼は一言呟いた。
「旨い」
「無理しなくてもいいのよ」
「無理なんてしてない。なんならお前も飲んでみるか？」
ロイエンタールは自分のカップをヘネラリーフェに差し出した。言われるがままに一口飲む。口の中にビターチョコレートの香りが広がった。
確かに甘い。だが甘過ぎず意外とスッキリとしているそれに、ヘネラリーフェの表情が綻んだ。
「ホントだ」
本当に美味しかった。ココアやホットチョコレートとは全然違う。お菓子特有のベッタリとした甘さがないのだ。
「だろ？」
それみろと言わんばかりにロイエンタールが苦笑する。結局リキュールをヘネラリーフェの分のミルクにも入れ、ベッドの上で二人は暫しゆっくりとバレンタイン気分を味わったのだった。
「ところでね……」
二日酔いには迎え酒ではないが、ある意味媚薬に酔ったが為に苦しんでいたヘネラリーフェの頭痛は、どうやらアルコールを口にしたことで多少は痛みも納まったようだ。そうなると、どうしても見てみぬふりができないこの状況……
「なんで私、こんなに頭が痛い上に、躯が怠くて、でもってこんなにキスマークがついているのかなぁ？」
「ゴホッ！！」
（なんで、忘れてくれないんだ！？）
すっかり安心しきっていたロイエンタールを"一見"無邪気な表情で見上げてくるヘネラリーフェのフェイント攻撃に、彼はホット・モーツァルト・ミルクを吐き出しそうになった。
ちなみに、媚薬入りチョコレートは当然製造中止となり、媚薬効果の犠牲者もあのニュースキャスターの予測した通り、本命チョコとしてしか買わないだろうブランドチョコレートを口にするのはやはり男性だけのようで、特に世間を騒がせる事態にはならなかったようだ。
後からわかったことなのだが、結果的に回収が早かったのと速報が早かったことで（ロイエンタールが目にしたあのニュースは、本日何度目かの速報ニュースであり、実際は朝一番で緊急速報として流されていたようである）結局犠牲者は出なかったらしい。（寝室にこもっていた二人は、要するに自業自得だったということだ）
つまり、ヘネラリーフェは最初で最後の犠牲者だったというわけで……さすがのロイエンタールも問い詰められてもそれを口にすることは強固に拒んだ。
確かに美味しいシチュエーションだった。ヘネラリーフェが記憶をすっ飛ばしているのも残念無念だ。が、我が身はもっと大切なのである。
バレンタインから遅れること約一週間、ようやく仕上がりました。またまたバカップル入っているお二人さんですが、今回はちょっとだけ攻守交代でございます（爆）
リーフェったら、ロイに何したんでしょうね〜〜〜 あの仰け反り具合は！？（^^;）
バレンタインということで、なるべくスウィートを心掛けて露骨な描写は避けたつもりだったんですが、出来上がってみたらエロですよね、これ（^^;）
さて、作中で使用した『モーツァルト・チョコレート・クリーム・リキュール』というのは、実際にあるオーストリア・ザルツブルグ産のリキュールです。
前はバーなどでしかお目にかかれなかったものですが、最近は明治屋のような多才な品揃えのお店でちょくちょく目にするようになってきました。
ちなみに蒼乃の場合は、行きつけのバーのチーフバーテンダーに勧められて呑んだのが最初です。カルーアは甘すぎるから云々という話しをしていた時に、ビターチョコレートのリキュールがあるけど？と言われて呑んだのですが、これが大人の甘さで結構いけたんですよねぇ。
作中ではホットで呑んでいますが、実際はアイスカクテルです。が、そこは蒼乃！！ ちゃんとバーテンのお兄ちゃんにリサーチして、ホットでも十分美味しくいただけると御墨付きを貰った上でネタに使用致しました（笑）
割とお勧めのリキュールではあるのですが、一本買うのはちょっとキツイかもしれません。と言うわけで、バーにでも行く機会があれば是非一度お試し下さいな。無論、名古屋に起こしいただければ、蒼乃が行きつけのお店に御案内致しますわ♪
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